故内閣顧問木戶(孝允)公は臨終にあたり、吉敷郡糸米村にある旧宅・山林を全て糸米の村民に寄付し、子弟の学資に充てるように遺言しました。嗣子正二郎君は、公の意志をうけて山口県令関口隆吉に寄託してこれを村民に与えました。糸米の村民はそれを公債証書 六百円に換え、その利子を糸米村の五十余戶の子弟の学費としました。糸米村の人たちはこの恩を忘れてはならないと、祠を建て毎年お祭りをし、その経緯を石に刻んで後の人たちに知らせることにしました。 木戶公は明治新政府の重臣となり、国家の安泰を願っていましたが、明治十年西南戦争が起こるや国の将来を大変心配し、とても糸米の村民を心配する暇などはありませんでした。しかし、木戶公は人や物をいつくしむ心が大変深く、ふるさとの人々のことを片時も忘れるはずはありませんでした。公は臨終にあたり後世のことを考え糸米の人たちのために学資を寄付したのです。これは郷里の人たちを心から愛したからでした。公は人や物を「愛し慈しむことを国中の人たちに及ぼしました。だから日本中の人たちは皆公が人愛」 慈しむことを知ったのです。まして況や糸米村の人たちが公の心に親しくふれ、感謝する のは当然のことでした。さて、この糸米の地は鴻峰の北側に位置し田野が南に開けた所です。土地は熟し、冬は温暖で樹木や竹が群生し、水は清く石を洗い、孤松は形よく野菊が香っています。この風景はかって公の目を楽しませた所です。しかし、公はひとたび国政にたずさわれば、毅然としてこれに対処しました。 糸米の村民は深く公をしのび、その恩恵をうけたのです。そのため、詩歌をつくって公をまつりました。その言葉は、子弟をおしえ、老父を愛し、酒を酌み、飯を盛る、わずかな物ではあるがその風土は素晴らしく、これをはぐくむ山や水には公がいるようです、糸...
Read more何だかいかにも、当時、長州ファイブで名が有名になっただけの人であるかの如く、神社の本殿に木戸孝允の写真が飾ってあるとは…凄く長州藩。の県だけあります。また、それがユニークで面白いです。木戸神社は祭神を木戸孝允(桂小五郎)を持つ神社です。そうか。なる程ね。そうか。祭神が木戸孝允ね。木戸孝允は萩に生まれ、幕末維新時代に京都や江戸で、国事に活躍しました。この神社の創建は、明治11年1878年。だが、孝允は1877年明治10年に死去しました。然し、この地に地区民の子弟育英の資金するように遺言したが、これに感謝した人達が社を建てて、孝允を祀る事にしたのだそうです。後で思い出した。木戸孝允は、長州ファイブではないです。幕末時代の長州藩主です。ただ、日本の鉄道の事に関して、長州ファイブと関わ...
Read more木戸 孝允(きど...
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