神名帳の大和國平群郡の項に「龍田比古龍田比女神社 二座」と記載のある式内社。 法隆寺から直線距離で1,100m南西(裏鬼門)の位置に鎮座。
現在の御祭神は天御柱神・国御柱神の荒魂、配祀神として龍田比古大神と龍田比女大神を祀っている。
創建は、聖徳太子が法隆寺を建立する際、鬼門除けとして当社を創建、竜田大明神を遷し祀ったとある。 つまり、当社は聖徳太子が法隆寺建立の際に、三郷町立野の龍田大社より竜田大明神を勧請したものという。
龍田大社の御祭神は天御柱命と国御柱命となっているので(一説には風神である級長津彦命と級長戸邊命)、当社の主祭神が天御柱神と国御柱神の荒魂となっているのはそういう由緒に基づくものだろう。このような由緒から、立野の龍田大社を龍田本宮、当社を龍田新宮とも呼んでいるようだ。
しかし、神名帳の社名からすると当初の御祭神二座は右社殿にお祀りされている龍田比古大神と龍田比女大神の二柱であろう。
そもそも、法隆寺建立の頃、神仏習合の思想はなかった。神を仏法の守護としていく考えは、宇佐の八幡神が東大寺建立に協力するという話の後、実際は福岡県の香春岳から採掘される銅が大量に奈良の大仏建立のために供給されたことを示すのだが、いずれにしても、法隆寺建立の頃にはそのような思想はなかっただろう。
おそらく龍田比古大神、龍田比女大神の二柱は記紀にも現れない神で、当地の地主神。当社の創祀は法隆寺建立よりももっと前だったに違いない。
神功皇后が三韓征伐に向かわれる際、鶏の声を聞いて出立する予定が、鶏が鳴くのが早すぎ、出立が早すぎた。そのため峠を登っても夜が明けなかった。そのため、その峠の名前は暗峠(くらがりとうげ)と呼ばれるようになった。その鶏は役立たずということで、生駒川に捨てられ、かわいそうに思った下流の龍田川の龍田神...
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私はその守護神となろう」と言われたので、その地に法隆寺を建立し、鎮守社として龍田大明神を祀る神社を創建したという。元々の社名は「龍田比古龍田比女神社」で、その名の通り龍田比古神・龍田比女神の二神(龍田大明神)を祀っていた。
延喜式神名帳にもこの名前で記載され、小社に列している。しかし、後に龍田大社より天御柱命・國御柱命の二神を勧請したため、元々の祭神は忘れられてしまった。現在は天御柱命・國御柱命を主祭神とし、龍田比古神・龍田比女神を配祀している。
住所:奈良県生駒郡斑鳩町龍田1-5-6
アクセス:JR大和路線・近鉄生駒線王寺駅より奈良交通バスで8分、「龍田...
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