城主が城の維持が難しくなった頃から城の縄張を切り売りしたことで現在の本丸部分だけが残ったらしい。 近くに城主の菩提寺が在ります。 現在の石垣等は後に作られたモノで当時のモノでは無い。 おそらく、緑地公園化された時の物だろう。 土塁を築いた高さの分だけ堀の幅と深さが比例するハズだから堀の幅がオカシイ。 二の郭、三の郭などがあったハズだし、その辺りは現在の生活道路が元の堀の跡に当てはまるハズ。 理由は壬生城の堀の跡が道路になっているので同じだろう。 城の周囲のそんな不安定な場所の上に家屋を建てることは無いと思う。 (高規格道は無関係に貫いてるが。) 宇都宮城からだと壬生城等と並ぶ南方の最重要防衛拠点の1つ。だったのは地図を見て城跡が横に並んでいる事から間違い無いだろう。 かつての城の縄張は西側は田川から東側は鬼怒川まであったとか。 今は無き、西側は新4号バイパス付近を東山道に、城の近くを宇都宮城に向かって上三川街道、砂田街道が東宿郷に、形を変えて南北に走る。 城の近くを東に壬生城の近くを、西に鬼怒川を渡し船で跨いでいた、名も無き細い旧街道が生活道となって静かに走る。 温故知新。 歴史を掘り下げればソコに無いと思い込んでいたものが必ず見えてくるし、新しい物も見えてくる。 我々は、昔の人達の知恵と恩恵の...
Read more上三川城(かみのかわじょう)は、栃木県河内郡上三川町上三川(下野国河内郡上三川)に建長元年(1249年)から慶長2年(1597年)までの350年にわたり栄えた中世の平城です。 城主は横田氏、今泉氏の二期に区分されます。
豊臣秀吉の朝鮮出兵時には、上三川城からも数百人が朝鮮に渡ったとの記録があるそうです。
往時の城は、東西約500 m×南北約800...
Read moreFirst time wouldn't be the last time to visit this peaceful castle ruins. Definitely,...
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