天武天皇は兄の天智天皇の娘4人(有力説)を娶っており 後の女帝持統天皇(うののさらら)が皇后となり草壁皇子を儲け 立太子 一方大田皇女には大津皇子が産まれます 大津皇子は幼くして母を亡くしますが文武の才に秀で人望厚く政治に参加 天武天皇崩御年(686年)皇位継承の妨げ 脅威と見た皇后の策略か?本当に大津皇子が謀反を企てたのか?密告により捕らえられ24才で賜死 その後 草壁皇子も3年足らずで病死 怨霊 祟りと騒がれたそうです 明確な史料は無く ここでも勝者の歴史となっているのでしょうか🤔
古代の大和では "死者の魂は二上山の彼方に去り 三輪山からの日の出とともに蘇る"とされていたそうで 二上山 雄岳山頂より東へ葛木二上神社を過ぎた少しの所にあって 7世紀後半築造の円墳 東西に長い直径10〜12m 高さ約3.4m 近年1983年(昭和58)麓で偶然発見された「鳥谷口古墳」も同じく7世紀後半頃の築造とされ 此方を真墓とする説もあります
やぁ〜😅💦息を切らしながら やっとの思いでたどり着きました🙏 帰りには実の姉 大伯皇女の詠んだとされる歌碑の所にも寄り...
Read more大津皇子は才能に恵まれ次期天皇の有力候補皇子だっただけに権力争いに巻き込まれ24歳の若さで悲劇的(策略により)な死を遂げました。 持統天皇は自身の息子を天皇にするために大津皇子を謀反の罪ででっち上げそして捕え自害を強要。才能ある若者が権力争いの犠牲になった悲しい出来事として、今も語り継がれています。 耳にするのも波動が下がってしまうおぞましい人間の性に今も昔もやり方変われど変わりなし。二上山に登山の際には大津皇子のお墓にお参り無さっ...
Read more大津皇子は、密告により謀反の意有りとされて捕えられ、翌日自宅で自害された。真意はともあれ、飛鳥の西の山の上に葬られたのは、たたりを恐れてのことかな。政権争いであるとはいえ、24歳の若さだったので、皇子の無念が、世の中に災いとならぬよう、高い山に葬り、鎮まれることを念じたのかしら。山の上は、神様が鎮座される場所だから、同じように、高い山に埋葬したからには、神になったので、荒ぶること無く、静かに下々の人を見守るようにおまつり...
Read more