到津八幡神社 千四百年式年祭御社殿修改築趣意書 一、御祭神 八幡大神 息長帯比売命 品陀和気命 多紀理比売命 市寸島比売命 多岐都比売命 豊日別命
境内末社 稲荷神社 若宮神社 水神社 貴船神社
一、御由緒及び沿革 到津八幡神社御鎮座の由来は、すこぶる遠く、神功皇后三韓御親征の後皇子を宇美の里にご生誕、豊浦宮に還幸の途次、御舟をこの津に寄せられました。よって一祠を建て、皇后の和魂を鎮祭し、祭祀を行うことになりました。 天平十二年(七四〇)勅命により、大将軍大野東人は大宰少弍藤原広嗣と、板櫃川の合戦に於て八幡宮に戦勝を祈願す。 永禄四年(一五六一)大友義鎮の兵火にかかり宇佐八幡宮ことごとく烏有に帰したため、御分社中、第一の御宮柄である当社に御霊を鎮座されて二十有三年、天平十一年に宇佐に還幸されました。 天正年間、九州擾乱相続き、御社殿は荒廃しましたが慶長五年(一六〇〇)国主細川忠興公によって再興され、小倉城の産土神として崇敬されました。 寛永九年(一六三三)領主小笠原忠真公、領内の産土神として御社殿を修復して、神領を献じ毎月代拝奉幣の事を永格とする旨、申し渡されました。以来藩主の崇敬いよいよ加わり、増改修数回におよび現在の御社殿は天保六年(一八三五)小笠原忠徴公、並びに明治二十九年(一八九六)小笠原忠忱伯の造営にかかるものであります。 かかる歴史をもつ当社は、古くより武門・武将・藩主の崇敬厚く、広く企救郡一帯の住民の信仰を集め企救郡中、大社と称せられ、小倉城北西地区、八幡東地区に亘り、産土大神として尊崇され、明治五年千三百年祭が行われ、次いで大正十四年に千三百五十年祭が執行され、今日に至っています。 本年、この千古の霊跡を伝える当社の千四百年式年祭を迎えることは、この上ない光栄であります。
※以下略 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 到津八幡神社 御祭神 息長帯比売命(神功皇后) 品陀和気命(応神天皇) 宗像三女神 豊日別命(豊前国の守神)
境内社 勘定錦春稲荷神社(商売繁盛の神) 若宮神社(須佐之男命・大雀命・顕宗天皇) 貴船神社(龍神・止雨・祈雨) 水神社(水を司る神)
御事蹟 神功皇后は御征韓の後、宇美の里で応神天皇をご出産なさいました。長門豊浦宮に還幸の際、御船をこの所の津(港)にお寄せになりました。これが到津(津に到る)と云う地名の起源であり、千古の霊跡を伝えるものでございます。 後に一祠を建て皇后の和魂をお祀りいたしましたのが当社の始めでございます。 神功皇后は身重のまにまに戦場に赴かれましたが、その大いなる御神力にて胎中の応神天皇を守護され、お導きになられました。以来人々は安産を祈り、社前の川の水を産湯として汲み用いてきました。 因って川名は産川(ウブカワ)とも呼ばれていいます。(現在の板櫃川) 文治四年(一一八八年)宇佐神宮より宇佐八幡大神を勧請しました。 『豊前国誌』には次のように記されています。 「宇佐八幡宮御分社中に於いては第一の社柄といひつべし」 また、細川氏、小笠原氏の尊崇も厚く企救郡大社と称せられ、現在に至ります。
明治五年 千三百年祭 大正十年 千三百五十年祭 昭和四十九年 千四百年祭 昭和五十九年 千四百十年祭
御祭礼 一月一日[歳旦祭] 一月四日〜六日[会社安全祈願] 一月中旬[どんど焼祭] 二月第一午の日[初午祭] 五月四日・五日[春季大祭] 五月中旬〜六月中旬[敷地祓] 七月三十一日・八月一日[夏越祭] 十月十四日・十五日[若宮祭] 十一月[七五三詣]
社頭祈願 安産祈願・初宮詣・七五三詣・交通安全(車のお祓い)・家内安全・商売繁盛・厄除祈願・敬老健康長寿祈願・病気平癒祈願・心願成就祈願・合格祈願・八方除け・除災招福祈願・神恩感謝(お礼参り)・願掛け 他
出張祭典 地鎮祭・上棟祭・竣工祭・家祓(入居前のお祓い)・埋井(井戸埋め)・解体清め祓い・安全祈願(会社・工場等)・開店清め祓い(店舗・事務所) 他
その他 神葬祭(神式の葬儀)・年祭・結婚式(社頭挙式)
境内掲示案内
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県社 到津八幡神社 小倉市大字板堰字村の上
祭神 息長帯比売命和魂、品陀和気命、市寸島比売命、多紀理比売命、多岐都比売命、息長帯比売命荒魂、豊日別命
由緒 社記にふ神功皇后三韓を征し還て皇子を宇美の里に降誕す豊浦宮に還幸の時御舟此津に着く因て到津と号す亦板櫃と云後此地に一祠を建て皇后の和魂を鎮座す、故に世人安産を祈り河水を汲み産湯と為す因て川を名を産川とも云。 陽成天皇元慶二年詔令太宰府採豊前国規矩郡銅宛彼郡傜夫百人為採銅鎔作先潔清斎戒申奏八幡大菩薩宮云爾後藤原長光なる者をして宝鏡を鋳造せしめ宇佐宮に奉納あり亦当社にも奉納ありしと。 後鳥羽天皇文治四年宇佐八幡宮を此地に合祭す、宇佐神領を分ち四時の祭祀に供す故に宇佐大宮司の支族世々為神主後清末駿河守なる者到津城に居り大神を祭祀すと云ふ。 宇佐宮大鏡に到津庄四至東垠古驛岳竝大路南、高杯山西、筑前遠賀堺北埌海件四至寛弘四年五月二十五日国府之由見干保延七年宰府問注也田数百三十丁用作一丁庄田者守宗岳朝臣為成云々乃往昔宇佐宮の神領を分ち四時の祭祀に供せし地なり、今此地当社の産土たたり、永禄四年七月大友義鎭の兵火に罹り宇佐宮社殿悉焼凶す、因て神璽を当社に鎮座す天正十一年宇佐へ還幸すと云う。 天正年中九州擾乱の時祠殿門廊自ら荒廃し宝器古文書等悉紛失す、唯旧跡に一小祠を建て祀るのみ藤原長光の末裔宝鏡の紛失せしを聞き更に新鏡を鋳造し当社の先規を継く其鏡今に存す、慶長年中国主細川忠興之を再興し祠宇を改造し小倉城の産土神とし神領二十石除地にて寄付し更に神官を補せり。寛永九年領主小笠原忠真亦産土神として神領其他如旧社殿の営繕祭器の修治に至まで永年の規格を定め領家累代篤く奉祀す、且企救郡大社の称を兼ね水旱疫疾非常の事故あれば全部必ず当社に於いて臨時祭を執行す、明治四年社領上地同六年七月九日郷社に列せらる。 大正十四年三月十八日県社に列せらる。
例祭日 十月十四日、十五日 神饌幣帛料供進指定 大正十年十一月二十四日、大正十四年四月九日 主なる建造物 神殿、幣殿、拝殿、神饌所、御旅所(神幸場)社務所 主なる宝物 御太刀、(行廣作)、御刀、(藤原直勝作)、御刀、(藤原宗清作)、箭、弓、鏡、小笠原忠幹奉納 境内坪数 二千六百四十六坪、百八十三坪(神幸場) 氏子区域及戸数 西武小倉市八幡市の内大字槻田 一万二千戸 境内神社 若宮神社(大雀命、速秋津比古神、顯仁天皇、速秋津毘売神、須佐之男命、弥都波能売神) 貴船神社(闇淤加美神、高淤加美神、闇御津羽神) 稲荷神社(宇迦之御魂神) 摂社 大疫神社(稲田姫命、事代主命、須佐之男命、大穴牟遅命、事代八十命) 貴布祢社(闇淤加美神、高淤加美神、闇御津羽神) 末社 荒生田神社(少彦名神、藤原広嗣、弥津波能売神) 水神社(弥都波能売神) 水神社(右同) 水神社(右同) 心吉神社(建御名方神、事代主神、大国主神) 貴船神社(闇淤加美神、高淤加美神、闇御津羽神、弥津波能売神) 稲荷社(宇迦之御魂神) 大山祇神社(大山津見神、品陀別命、須佐之男命) 神明社(天照皇大御神、豊受皇大御神) 南宮神社(大山咋神) 愛宕社(加具土神) 鹿島社(建御雷神、加賀勢雄神)
福岡県神社誌 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 若宮神社 御祭神 ✳︎第十六代天皇・仁徳天皇(大鷦鷯尊)〜応神天皇の第四皇子。 ✳︎第二十三代天皇・顕宗天皇(けんぞうてんのう) ✳︎素戔嗚尊(スサノオノミコト) 大正三年五月十三日 水神社を合祀。 ✳︎速秋津毘古神(ハヤアキツヒコノカミ) ┓ ✳︎イザナギ・イザナミ二神を生んだ神。 ✳︎速秋津毘売神(ハヤアキツヒメノカミ) ┣ ✳︎湊・河口を司る。また、祓いの神とされる。 ✳︎弥都波能売神(ミズハノメノカミ) ┛...
Read more小倉の小高い住宅街の中にある由緒ある古いお社です。北九州は土地柄神功皇后を祀る神社が多いですが、このお社もその一つ。旧社格は県社。主祭神は応神天皇、神功皇后、多紀理比賣命、多岐都比賣命、市寸島比賣命、豐日別命です。創建は古く神功皇后が三韓征伐の後(201年?)、宇美の地で応神天皇をお産みになられた後、豊浦宮に御座船を向けた際、この地にある津(今でいう港)に着いた為「到津」と呼ばれる様になったとの事。後に祠を建て神功皇后の和魂を祀ったのが始りと伝えます。神功皇后の御霊を祀ったところから人々は安産を願うようになりました。社前の川は今は板櫃川と言いますが別名「産川(うぶかわ)」とも言います。近くの町名に産川町というものもあり神功皇后伝説を今に伝えています。文治4年(1184年)、後鳥羽天皇の命により宇佐神宮を合祀し、宇佐大宮司の支族が祭祀を行うようになり、この時から到津八幡神社と呼ばれる様になりました。永禄4年(1584年)、豊後の大知義鎮(宗麟)が対立していた宇佐神社に攻め入り、堂宇や宝物全てを焼き払うという暴挙に出ます。宇佐神社の神官、僧達は小倉まで逃げ延び、神輿を護り奉り天正11年(1583年)迄の23年間、神璽を到津社に遷座しました。大友宗麟はキリシタン大名として有名ですが、宇佐神宮だけでなく対立する寺社を尽く焼き尽くしています。それでいて嫁の実家の杵築の八幡宮だけは守護したのです。まぁ、戦国時代ですし、対立した寺社が大名に匹敵する位の権勢を誇っていましたからやむを得なかったのかも知れませんが、いまいち好きになれない武将です。それはさておき、前述の通り到津社が無ければ今の宇佐神宮は成立していません。戦前の社家華族に宇佐神宮の到津家が入っているのも頷けます。今も宇佐神宮との縁は深い様です。その後天正14年(1586年)の九州平定により社殿は荒廃、多くの什器や宝物が失われ小さな祠のみが残る状態になりました。慶長5年(1600年)、小倉藩主となった細川忠興が再興し、二代目藩主細川忠利に代わり小笠原忠真が移封されてくると、社殿の修理を行い篤く尊崇され企救郡大社となり今に至ります。境内は急な石段を上った先にあります。入母屋妻入り唐破風を持つ拝殿は昭和49年(1974年)の1400年祭の時に改築されたものです。幣殿に続き流造の本殿は明治29年(1896年)のものです。本殿の屋根には5本の鰹木と外削ぎの千木をのせます。近代の神社建築らしくバランスが取れてスマートな配置です。そう広くない境内ですが綺麗に整備されており、北九州の中心部に近い住宅街にあるにも関わらず、静かな空間です。駐車場は少々解りにくいですが、社殿に近い所にあります。それでも若干の石段を上る必要があります。御朱印は直書きで何種類かありますが、複雑な図柄のものは神職さんが多忙な時は断られる事もあります。通常の御朱印は¥500-で頂く事が出来ます。忙しい中対応頂いた神職さんに感謝です。自宅からも近いのでまたお詣りに行きます...
Read more到津(いとうづ)とは、神功皇后この津に到るをいう。「いとうづゆうえん」には来ていた記憶が残るも、そんな話を習った覚えはない。神功皇后お産に因み、前面の川を産川(うぶかわ)とも言った。今では板櫃川という。ともあれ、神功皇后の存在を今に伝える一社であると共に、八幡宇佐宮の存続にも関わった、実は非常に重要な社でもある。
キリシタン大名の大友宗麟は、嫁の実家である八幡奈多宮は保護した癖に、八幡宇佐宮とは対立してこれを焼く。焼け出された神官は命からがら逃げ出し、到津に身を寄せる。 その後19年間、八幡宇佐宮は到津にあったという嘘のようなホントの話の故に、今なお到津家は宇佐宮に重きを成すのだそうだ。 到津を含む小倉は、八幡(やはた)と合併して北九州市となるけれど、元は豊前國で、筑前國とは文化圏が異なる。
そういう訳で当社の御祭神は、八幡宇佐宮と変わらない。筈が一柱、今の宇佐神宮には祀らない神がある。
豊日別命(豊前国の守神)
英彦山の高住社に祀る、豊前坊とも高木神とも猿田彦大神とも見られる、あるいは皇孫ニニギノミコトをサポートした神。九州守護神四面の一。元は八幡宇佐宮にも、この神を祀った筈。そうでなくては、田川の採銅所で新造した銅鏡を宇佐放生会で受け取り、和間浜の浮殿に納めるなんて発想が出てくる訳もない。
今となっては、地元の人も「お四面さま」はご存知あるまい。古事記に曰く。 (伊邪那岐命・伊邪那美命が隱伎之三子嶋の)次に筑紫嶋を生む。此の嶋も亦、身は一にして面は四有り、面の毎に名有り。...
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