戦国一の曲者、切れ者策士武藤喜兵衛こと真田昌幸公の墓所ですね。
生涯三度に渡って徳川家康と戦って全て勝ち、煮え湯を飲ましています。
まあ、三方が原で死ぬ思いをさせられて、上田城を騙して造らされて利用され、その城で二度の戦いに敗れ、息子の徳川秀忠軍は足止めされて結局江戸からの徳川本隊は関ヶ原の戦いに間に合わなかったり…
うーん、まさに踏んだり蹴ったりですね。 これは流石に許せないか😅
結局は九度山送りになり、昌幸はこの真田庵で最後を迎えますが、その史跡が今もこうして残して管理して貰えているだけで嬉しいです。
有名な史跡だけに観光客の方が頻繁に訪れているようです。これだけの人数を一人で対応していてはとても本来のお寺の業務もままならないだろうなぁと察しました。
善名称院さんは尼寺霊場なんですね。 ならばそういう事にも考慮が必要かも知れません。(昔は男子禁制と言う所も多かったというイメージも有りますし)
御朱印については居られる場合は記入して貰えます。
居られない場合でも寺務所入口がグッズ売場になっていて、御朱印も書き置きがあります。
他にはお守りやタオル、御朱印帳も御朱印の有無の色ちがい等々ありました。
お代は本堂の賽銭箱へというスタイルの様ですね。(2024年4月29日参拝)
資料館は入館料200円です。 九度山にいた時の幸村の書や昌幸が造った作品等がちゃんと残っていて、普通は特別拝観級だと思うのですが😅まさかこんな身近に観れ...
Read more2025.6.22 大安上人の開山、寛保元年(1741)に創建され、本尊に延命子安地蔵菩薩を祀る高野山真言宗のお寺です。
真田親子(昌幸と幸村)が関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗れ、謹慎を命じられ、この地に隠れ住んでいた屋敷跡です。
境内に歴史を書いた看板が有ります。閑居生活の中、父昌幸65歳で生涯を閉じる。やがて幸村は1614年、息子の大助ら一族と共に、大阪夏の陣、冬の陣で奮戦。が、1615年に茶臼山にて壮絶な最期を遂げる、そんな歴史が書かれています。その後、大安上人によって善名称院(真田院)が建てられたと…
境内には幸村が落ちた雷を封じ込め、村人を救ったと伝わる「雷封じの井」そして真田昌幸、幸村、大助のお墓(供養塔)も見えます。
蕪村も訪れたのですね。「隠れ住んで 花に真田が謡かな」蕪村には桜の散る様子を親子が歌っている姿が見えたのでしょう😃
真田親子の伝説が残るこの地(善名称院)とミュージアムは真田...
Read more真田昌幸公、幸村公とその一族、主従が蟄居された所で、最初に蟄居された高野山蓮華定院は女人禁制だった為、こちらに移られたようです。こちらでの蟄居生活中に無念にも昌幸公はお亡くなりになり、勃発した徳川家との戦に、秀頼公の招聘に従い幸村公がここから出陣された事はあまりにも有名です。こちらでは昌幸公、幸村公、大助公が真田地主大権現としてお祀りされている他、こちらで亡くなられた昌幸公のお墓を拝観出来ます。また、真田氏に関する資料館もあり、愛用品、書簡などを200円で拝観出来ます。グッズも販売されており、真田紐も購入出来ます。静寂した中にも真田氏の栄枯盛衰を感じる空間です。御朱印は体調不良の為、現在頂くことが出来...
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