藤崎八旛宮は、熊本市役所の北東1.7kmほどの熊本市中央区井川淵町の白川沿いに鎮座している熊本市域の総鎮守の神社です。旧社格は国幣小社です。
国道3号線沿いに昭和5年(1930年)建立の大きな一の鳥居が建立されていて、東へ300mほどの参道が本殿に向かって伸びています。
御祭神は、「応神天皇」を主祭神とします。 「神功皇后」・「住吉三神」を相殿に祀ります。
社伝よると、 平将門・藤原純友の乱の時、追討と九州鎮護との勅願によって、石清水八幡宮より分霊を迎え、承平5年(935年)宮崎庄の茶臼山に奉斎したのが創祀です。 勧請の時、勅使 は、石清水の藤の枝を鞭として神馬を曳いてこの地に着き、神霊の感応の地に栄えるよう鞭を立てたところ、繁茂したので祭地を定め、藤崎と呼ぶと社名起源の伝説があります。
石清水八幡宮を九州に勧請した五所別宮の八幡の一つです。 宮崎庄は現在熊本城のある地で、古くは国府の所在地でした。 国府八幡宮として鎮祭され、国衙の崇敬社ともいいます。 宗社と して朝野の尊敬篤く、鎌倉幕府以降、地頭 ・領主らが造営につとめ、熊本城の鎮守社と して城内に広く社域を占め、社殿も壮麗でした。
明治10年(1877年)西南の役の兵火をうけ、城とともに諸建築は焼失してしまいました。 翌年、現在地に遷座し、明治18年(1885年)社殿を造営しました。 昭和9年(1934年)より15年にかけて造営を行い、本殿・中殿・拝殿...
Read more参拝しました。
ホームページより 藤崎八旛宮は、承平5年(935)に朱雀天皇が平将門の乱平定を祈願され、山城国(京都)石清水八幡大神を国家鎮護の神として、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請されたのに始まる。鎮座の日、勧請の勅使が藤の鞭を3つに折って、3ヵ所に埋めたところ、この地に挿した鞭から、やがて芽が出て枝葉が繁茂したので、藤崎宮の名称が起こったと伝えられている。 (藤崎八旛宮 社記による)
藤崎八旛宮の「旛」は、天文11年(1542)、後奈良天皇宸筆の勅額に拠るものである。創建以来、歴世朝廷の御尊崇はもとより、世々の国司、地頭、藩主から万民に至るまで広く信仰をあつめ一国の宗廟と称され、神威は赫赫として四隣に輝いた。往時の社殿は壮大を極め、修造は常に勅命によって、時の国主が承平草創の例にならい造営する伝統が踏襲されていた。それらの実情は、社蔵の文書記録に詳しく記されている。南北朝時代と戦国時代には、群雄の陣営となり或いは戦場と化して荒廃した時期もあったが、降って加藤氏、続いて細川氏が肥後の国守として任に就くや、共に代々崇敬殊の外篤く、当宮の造営に力を尽くし、13年を期とする式年造営修復の旧例をも復活された。その他社殿造営費をはじめ、毎年恒例の諸祭儀費に至るまで、すべて藩費をもって賄われたので、江戸時代250年間、諸事欠けることなく整備された。
明治維新後、同10年(1877年)に西南の役が勃発し、熊本城と隣接する藤崎台にあった社殿は、兵火のためにすべて灰燼に帰し、社地は熊本鎮台用地となったため、現在の井川渕町に移転。翌11年に仮殿を造営、次いで同17年にようやく本殿の造営を見た。 大正4年国幣小社に加列。昭和10年御鎮座1000年を迎えた際に、国幣社にふさわしい造営計画を設定し、国費の補助と氏子崇敬者の浄財とによって新たな造営に着手した。しかし、間もなく戦時となり、工事ははかどらず未完成のまま終戦となったため、戦後は本殿以下の社殿、次第に腐朽し尊厳を損なう状態となった。よって、昭和60年の御鎮座1050年式年大祭を目処に、修復整備並びに新規施設の諸工事を進め、逐次竣成して今日の壮麗を拝するに至った。平成22年4月1日には、畏き辺りより御幣帛を賜り、應神天皇1700年式年大祭が斎行された。この記念事業として、向拝及び拝殿の漆塗りかえ工事、その他必要な事業がすすめられている。 また、この事業に続いて、本殿漆塗りかえ工事はじめ社地の整備が御鎮座1100年の式年大祭...
Read moreI think Fujisaki Hachimangū strikes a nice balance between being scenic, historically meaningful, and accessible. It’s not overwhelmingly large, so it doesn’t tire you out, but has enough visual and spiritual richness to make a visit worthwhile. The festival especially adds color and energy. If you’re in Kumamoto, it’s a shrine I’d...
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