元慶年間(877-885)に、陽成天皇誕生時に、僧正遍照を開基として、天皇の母・藤原高子が支援し建立した御寺です。 元慶寺創立時には、ここから五百メートルほど南にあり、僧正遍照のお墓のさらに南に建立されました。が、応仁の乱等で荒廃、中世には田んぼの状態だったと記録にあります。現在の御堂は江戸時代の建立です。経緯は中興の碑に詳しいです。 〇開基・僧正遍照は、桓武天皇の孫にあたるものの、父は生母の身分が低く、親王宣下を受けれず、臣籍降下し、嵯峨天皇に仕え、正三位大納言となった(良岑安世)。安世の8男に生まれた僧正遍照は在俗中、仁明天皇に重用され、蔵人頭等を務め、天皇崩御と共に天台宗で出家。僧正の位にのぼり、紫野・雲林院の別当も兼ねました。六歌仙ならびに三十六歌仙にも選ばれ、歌僧の先駆けの一人です。大石街道を120mほど下ったところに、御墓が現存します。 〇藤原高子とは、摂関家の姫で、清和天皇女御、陽成天皇母。(842-910) 伊勢物語のモデルといわれる「昔男」=在原業平と叶わぬ恋の歌「月やあらぬ花や昔の花ならぬわが身ひとつはもとの身にして」で知られる摂関家の姫君で、業平と別れ(させられ)、入内後、二男一女に恵まれ、皇太子(のちの陽成天皇)の母となり皇太后となりました。 在原業平は平城天皇の第一皇子・阿保親王と、桓武天皇の第8皇女との間に生まれた貴種で、父の意向で臣籍降下しますが、伊勢物語にあるような地方を長く流浪することは史実としての信憑性は微妙であり、あったとしても母の喪中のごく短い時期か、兄・行平が地方長官になった時の話と混同されているかという説もあります。紆余曲折はありながら、現実には高子の後ろ盾により、業平は右近衛権中将から蔵人頭まで出世しました。 (蔵人頭は、天皇の秘書たる要職です。) 藤原氏の出世手段は、藤原氏の娘を入内させ天皇の外戚にし、その天皇の妃にまた藤原一族の姫を入れて皇子を望む、というエンドレスなループで権力を得るシステムでしたが、これに、高子は逆らいます。 高子は、藤原氏ではなく、恋人の在原一族を優遇し、実家の摂関家の当主である兄・藤原基経を激怒させてまで、在原文子(息子の身分の低い妃、更衣)を宮中でも贔屓したりし、なかなか強気に兄と対立します。 兄妹どちらも強情で一歩も引かず事態は泥沼化します。 結果、藤原基経は「高子の産んだ皇子は一切支持しない」と出仕を拒否するまでに至りました。 そのため長男(陽成天皇)退位後、高子のもう一人の皇子は即位できず、皇統は遠縁の光孝天皇に移ります。これは摂関政治で異例のことでした。 伊勢物語では引き裂かれ悲恋で終わる二人ですが、現実の二人は、女は天皇の母になり権力を持ち、男の出世を支えました。 高子は、(夫・清和天皇没後)老後には、洛中の北東、吉田山の神楽岡辺りに居を構えますが、その頃、目と鼻の先に業平の屋敷もあったといわれ、さらに高子の長男である天皇の陵(陽成天皇神楽岡東陵)もすぐ近くでした。ある意味、彼女は恋の勝利者のような印象すら漂います。在原業平の墓の推定地の一つ(業平塚)は、この神楽岡にあり、本人の遺言で遺品とともに葬られたと伝わります。 この元慶寺の建立時は、高子は28才(皇太子出産時の年齢)くらいと推定されます。 その後、高子は、東光寺の僧侶との密通疑惑で皇太后を廃されますが、没後の天慶6年(896)朱雀天皇により復位されました。 藤原氏は、多くの系統に分かれ、それぞれが娘を天皇の妃にし次の天皇の外祖父になることを狙っていましたので、一族からは多くの姫君が入内、当然一族内の競争も熾烈でした。権力・利権を巡っての藤原氏同士の潰し合いも起きました。 花山天皇(968-1008)の時代、その皇太子(後の一条天皇)の外祖父である右大臣藤原兼家(道長の父)も、早く皇太子に即位していただきたくて、ジリジリしていました。対して、花山天皇は、後ろ盾であった摂政・藤原伊尹が亡くなり、有力な外戚がいなくなります。その頃、愛妃であった女御・忯子が妊娠中に17才で亡くなり、花山天皇はショックを受け世をはかなみ、出家を考えます。 兼家の次男道兼は、蔵人として天皇に仕えていましたが、父の密命(陰謀)により、天皇に出家を勧め、自分も出家してお供すると装い、清和源氏の多田満仲(頼朝・義経の先祖)に命じ、邪魔が入らぬよう警護させ、ひそかに上手く天皇を宮中から脱出させます。 その時、すかさず、藤原兼家は三種の神器(即位に必須な天皇家の秘宝)をさっそく皇太子の居室に移し、封鎖します。 一方、寺に着いた道兼ははじめから出家する気は毛頭ないので、天皇の剃髪を見届けるやいなや、「最後に、世にある姿をもう一度親にみせたいです」と寺から逃げ出します。騙されたと気づいた花山天皇でしたが、すでに時遅し。19歳で出家。退位されました。 その頃、花山天皇の側近がやっと遅ればせながら天皇の居場所を探し当て、追いつきますが、剃髪された御姿を見て驚愕。覚悟を決め、側近たちもお供をすべく、出家しました。 出家後も、花山法皇はこっそり新しい女性の所に通い続けていましたが、長徳2年(996年)国政を揺るがす事件が起きます。 亡くなった女御忯子の妹(藤原為光の四の君)に法皇はお忍びで通っていました。すると、同居のその姉(三の君)に通っていた藤原伊周(中関白家・藤原定子の実家)が、夜陰にその姿を認め、てっきり恋人を盗られたと勘違いし、その見知らぬ怪しい男に弓を射ます。それが、花山法皇と知らずに。矢は御袖を射抜きました。 法皇は出家後なので、恥ずかしく思い、事件を内密に済まそうとなさいますが、常から中関白家を追い落としたいと狙っていた、藤原道長が目ざとく気づき、「法皇に弓を引いた朝敵」として、大々的に中関白家を徹底的に追求し滅ぼしました。天皇家に対する反逆が明らかになった以上、朝廷も見過ごすわけにはいきません。中関白家は、係累者も含めて断罪されました。 これにより、一条天皇の後宮において、道長を父に持つ中宮彰子の栄光と、滅んだ中関白家を実家に持つ皇后定子の悲劇の没落が始まります。。 二条宮跡(推定地:二条室町)は中関白家の邸宅のあった場所で、すなわち定子の実家でした。中関白家の失脚後、焼失します。 なお、花山法皇は西国巡礼33か所を再興されたといわれ、出家後すぐに、性空上人に会うため園教寺(姫路市)にも滞在されました。 現地の言い伝えによると、花山法皇は兵庫県三田市の花山院に隠棲され、その折、法皇を慕って下向してきた妃たちが、法皇をお慰めしようと、寺に向かう坂道に座り、琴を弾いたと伝わる、琴弾坂があります。平安時代の雅な記憶です。 その後、その12人の妃たちは、法皇を慕い出家して尼になり、(花山院が女人禁制の為)山裾に住んだそうです。花山院には御廟所といわれる伝承地がありますが、宮内庁によると...
Read more“花山”は「かざん」と読む。昔は「かさん」だったようで、今でも地元は「かさん」らしい。
歴史上いろいろと由緒があるのだが、“花山”のキーワードは「華頂」「僧正遍照」「元慶寺」「花山天皇」だろう。
“花山”の名は、東山三十六峰の一つ、華頂山の山科側の麓に位置していることに関係し、華頂の「華」が「花」へ、「頂」が「山」に変転し“花山”となったもの。(らしい)
また、桓武天皇の孫である「僧正遍照」は、この花山の地に「華山寺」を創建、のちに名称を変更し「元慶寺」。 「僧正遍照」は「花山僧正」の別称をもつ。 「僧正遍照」の墓は“花山”にあり、なぜか宮内庁が管理。
「元慶寺」は西国三十三所観音霊場の番外札所。 そして、かの「花山天皇」が藤原親子にだまされて出家したところ。 「花山天皇」が西国三十三所巡りの創始者であることから、ゆかりのある元慶寺も番外ではあるがノミネートされているもの。
上記の文章を読み返してみたが、...
Read more御陵駅より徒歩30分と遠いのが難点。だが皆さんどの様にして来るのか、参拝客は多い。
本尊に薬師瑠璃光如来を祀る天台宗の寺院ですが、大河ドラマ、光る君へでも放映された大事件が有った。
当時、政権を握っていた藤原道長の父兼家と兄の道兼が、当時の花山天皇を引きずり降ろす為に策略を実行する。花山天皇が妻を亡くして悲しみにくれる時、出家すべきと道兼は勧める。 この元慶寺に出家、剃髪が終わった後、道兼は一度退席させて頂くと外に出る。 「だましたな!」 こうして兼家は幼い孫を天皇に、そして政治の実権を持つ関白になるという、平安最大のクーデターを起こすのでした。
花山天皇、19歳の若さ、僅か2年足らずで退位。そんな花山天皇の髪を埋めた場所を示す岩も有り、こもった道場も有りました。
そんな歴史を知って花山天皇ゆかりの33ヶ所巡りは...
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