** Introduction : Jinko-in Temple is known as Kobo Temple of Nishigamo by the locals. The temple belongs to Shingon sect of Buddhism. This is one of 3 temples in Kyoto associated with Kobo Taishi ( Kukai ) as his sacred ground. Other two temples are Ninnaji in Omuro and Toji near Kyoto station. The place was once called temple of roof tiles since it was resided by an artisan producing roof tiles used for Imperial Palace. It was one summer time when Kukai was 42 years old, Kukai decided to stay in this temple for 90 days for his training. The temple originally established in 1217 by a clerical worker of Kamigamo Shrine when he saw revelatory dream of Kamo Myojin ( deity of Kamo known for the power to control thunder ). He was ordered by Kamo Myojin to build a temple hall at a place where the sacred light was shed from above. Thus this place was named Jinko-in 神光院. 神 deity 光 light 院 temple → A temple where the divine light of Kamo Myojin shines upon. ( Trans-word+ TGM...
Read moreこちらは、空海様以外に太田垣連月と言う素晴らしい方の住まいが有りました。京都の女菩薩(尼僧)、幕末歌人、陶芸家(連月焼)と言われていました。 結婚したが次々と三人の子供を病気で亡くし、再婚後も夫と二人の子供を亡くし、転々と住まいを変えながら、苦労して唄や書、陶芸を学んでいました。後に有名な【蓮月焼】が出来ました。収入を得ると貧しい人達に施しを与え、不便であった鴨川にも自費で丸太町橋を架けたりもしていました。幕末風雲時、江戸を焼き払う為に向かっていた島津公一行の中に西郷隆盛がいました。命を懸けて馬のそばに寄り書状を差し出しました。「そなたは誰でなんの用があっての事か」と言われ、礼を尽くして「腰折一首差し上げたいと存じます」西郷は受け取り、繰り返し口ずさんだ後、「良く分かりもうした、私は西郷吉之助でごわす、安心してお帰りください」と応えた。【打つ人も打たれる人も心せよ、同じ御国の御民ならずや】【あだ味方、勝つも負けるも哀れなり同じ御国の人と思えば】西郷はこれを読み江戸に向かい勝海舟との会談に臨みました。お互い腹の探り合いもあったが無事に(江戸城は無血開城となりました)。 若き青年富岡鉄斎を預かり薫陶、人間形成に大きく貢献し、地域の人達には多くの施しを与えて行きました。85歳で亡くなった時は村を挙げて、涙の行列が続き別れを惜しみました。 神光院内ジンコウイン。京都市北区西加茂神光院120 門をくぐり左手に元住まいや碑が有ります。(篤志家の方が立派なトイレを寄贈されていました。) 近くの西方寺に連月記念碑が設けられており、お墓もそばの小谷霊園に有り、鉄斎の筆で名前を刻んでいます。(大舟院西方寺)北区加茂鎮守府庵町50 『追伸』 京都市左京区永観堂町48に(禅林寺永観堂)が有り、近くの放生池の中に蓮月の寄進により弁天社が祀られています。 【京都の蓮月焼】について詳しく述べていますので、読んで頂ければ幸いです。 またまた『追伸』 山口県萩市の熊谷美術館に【シ-ボルトのピアノ】 が有ります。日本最古であり、シ-ボルトの家族一家の人間模様が凄いです。是非これも読んで頂ければ幸いです。...
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