もうお参りしないと心に決めたので過去に撮影した写真は、Google map にすべて掲載したあと削除して最近の写真は1枚も残っていなかった。この写真は、手持ちの携帯電話の Google photo のうち唯一残っている1枚で、撮影した年度は、2008年、今から17年前の写真である。東北の片田舎(秋田県秋田市)から京・山科へ引っ越して来てから約31年経つが、わたし(と当時は健在だった母)は、一度も山科以外の土地に居住地を移したことがないので、毎年7月の24日前後に『地蔵盆』という行事があり、後白河法皇が、遙か昔に京・山科から伏見にかけての街道筋に6ケ所の地蔵菩薩の御堂を建立したから、“六地蔵”という地名がある、ということは、京都に来てから初めて知った。当時、徳林庵の御住職は、少しお耳が不自由で、尋ねたいことがあり一度お電話した際は、奥様が電話に出て、『わたしが居るときは問い合わせなどの応対ができるが、なるべくは FAX を送ってほしい』とのことだった。しかし、あれから時は過ぎて、本年(2025年)に本当に久しぶりに四宮地蔵を訪れる機会があった。というのも、わたしが現在掲載した写真を撮ったころから現在まで、終始一貫心を寄せるのは、徳林庵の御前の、“延命地蔵菩薩立像”を納める六角堂と、その少し脇にひっそりと立っている“人康親王・蟬丸供養塔”だからである。(つまり、徳林庵は、あまり興味がなかった。)わたしは、それこそ今から24年ほど前に、1年早く剃髪で出家した母に因果を含められて、当時母が秋田市から熱心に通っていた、日蓮宗大荒行に約30回以上入って、書物などによると、通算3,200日の大荒行を満行した、当時の大荒行正傳師、長崎県佐世保市田原町(田原は、タバルと読む)にある本興寺の元御住職・永村日鵬先生の紹介で、秋田市内の鹿児島栄潤先生のもとで(わたしの印象では“突然”)出家していたが、わたしも翌年、母が当時大荒行の行中に通っていた千葉県市川市の大本山正中山法華経寺に当時出仕していた、現在、千葉県松戸市慶国寺御住職の渡辺貞応(正しくは応は、旧字体)先生の元、“有髪”で出家した。日蓮宗の取り決めに従って、千葉県の小湊(宗祖日蓮大聖人の出生地に建てられた)誕生寺で得度式を行い、その後二度総本山身延山久遠寺に上がってそれぞれ一週間(所謂一七日)日蓮宗について(宗門史)・法華経概要・天台学(これは、主に、日本の天台宗学~宗祖傳教大師最澄様の教学では“なく”、中国隋の時代に隋の皇帝の国師であった天台大師チギ(チは、智慧の智、ギは、Google board にないので、Wikipediaを参照)などを学んだ。二度にわたる課程を無事終えて、あとは所謂“お寺さん”になれる寸前だったが、やはり京都にきたのなら、南都北嶺(奈良仏教、現存しているのは、華厳・法相・律、北嶺は、比叡山延暦寺)や高野山、京都市内も禅(臨済、曹洞)や、修験道(聖護院など)または数多くの神々(北野天満宮、伏見稲荷大社など)がいらっしゃるのだから、もっと多くを学びたいと、母が止めるのを聞かずに“突然”破門してもらった。僧侶の世界には、“辞職願”というのはない。師匠に事情を話して、無理矢理破門してもらい、わたしは母と違って出家から在家に戻った。つまり、還俗したのである。前置きが長くなったが、わたしは還俗したあとも、『禅』には縁がなかった。京都には、各宗派が毎日使用する経本の版元(京都市中京区・貝葉書院)や、仏教関係の書籍専門の出版元(法蔵館)または、仏教関係の書籍を専門に扱う書店(平楽寺書店、其中堂、文永堂など~古書含む)があって、または、京都五山等々、禅を学ぶには絶好の土地だが、これは生涯唯一というような出会いがなかった。これは、上手く説明できないが、やはり仏縁がなかった、としか言い様がない。だから、徳林庵も同じで、この庵は、南禅寺派だそうだが、わたしは長い間大徳寺派だと勘違いしていた。というのも、わたしはあの大徳寺に以前(以前とはいえつい最近)クレームの電話を入れた。理由は、お耳の不自由な御住職に代わって、チェコ出身のかたが現在徳林庵の御住職をしていると思うが、その人とわたしはどうやら因縁があるらしく、2025.05.15, 20:30ころ、わたしは琵琶湖疏水で転倒して母からもらったたった一本の数珠が切れたが、あの暗闇で、ジョギングというよりはマラソンをしている人がいて、それがチェコ出身の徳林庵の御住職だった。ということは、それ以前に、わたしが『琵琶琴四宮大明神・神変大菩薩、京都古仏』(Google map 参照)へ行こうと思ったが、ナビがうまく機能せず、全く分からなくなって、再び四宮地蔵に戻ってそこの住職が朝のお勤めをしているのは知っていたから(2025.05.18, 早朝のこと)、迷って、四宮地蔵に戻るころにはお勤めがおわるあたりだと思ったからである。そして、わたしの想像では、お耳が少し不自由な、あの頃の御住職だと思ったが、地蔵菩薩の六角堂からお勤めを終えて出てきたのはチェコ出身の某師だった。因縁はここで終わらず、朝のお勤めがあるのなら、当然夕のお勤めもあるだろうと思い、ある日徳林庵に、18:00...
Read more2022/8/23追記。 「京の六地蔵巡り」 山科駅から旧三条通を東に。 「徳林庵」の「山科地蔵」をお参りし、青色の「お幡」をいただきました。
コロナ前は、併せて、四宮祭として、旧三条通が歩行者天国になり、多くの屋台が出ていたそうですが、今年も、コロナ禍のため、屋台は出ていませんでした。
京都では、お盆の行事として、8月22日、23日(旧暦7月24日)の、地蔵盆(地蔵菩薩の縁日)の日に、京都の入口、旧街道の六ヵ所にあるお地蔵さんを廻って、家内安全、無病息災を祈願する「六地蔵巡り」が行われます。
各寺で授与された六種のお幡(はた)を入り口に吊すと、厄病退散、福徳招来するといわれており、800年も続いている伝統行事です。
六つの地蔵尊は、 ・徳林庵(山科地蔵)東海道。 ・上善寺(鞍馬口地蔵)若狭街道。 ・源光寺(常盤地蔵)周山街道。 ・地蔵寺(桂地蔵)丹波街道。 ・浄禅寺(鳥羽地蔵)...
Read more南禅寺第260世住職の雲英正怡禅師によって1550年(天文19年)に創建されたお寺が臨済宗南禅寺派の「柳谷山 徳林庵」になります。
茶所には、運送往来・参拝の人々に茶をふるまった茶釜がある。またその奥には鎌倉時代の作といわれる四体石仏が安置されています。
六角堂の裏手に南北朝時代のものと伝わる宝篋印塔が「蝉丸・人康親王供養塔」になります。
徳林庵の門をくぐった先には、京の六地蔵巡りの8/22・8/23に地蔵菩薩の化身といわれる「閻魔大王の若い頃のお姿」である秘仏「大閻魔尊天」を参拝することが出来る。
徳林庵にある平屋建ての六角堂に山科地蔵が安置されています。 山科地蔵は小野篁(おののたかむら)公により852年に作られた六体の地蔵尊像のうちの一体で、初め伏見六地蔵の地にあったお地蔵様になります。 後白河天皇は、都の守護、都往来の安全、庶民の利益結縁を願い、平清盛、西光法師に命じて、1157年、街道の出入口6箇所に一体ずつ安置するようになり、ここ山科の地(東海道)に分祀されたものと伝えられています。以後、山科地蔵は、毎年8月22日、23日に開催される京都六地蔵巡りでのみ開帳されている。 通称として、山科廻地蔵(めぐりじぞう)、山科地蔵、四ノ...
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