2024年11月3日 旧東海道57次を歩く旅 ファイナル ~早起きは三文の徳~
旧東海道を歩く旅は2日目の朝を迎えました。 昨日は生憎の悪天候に阻まれ距離を稼げなかったので、今日は朝早くから動き出すことにしました。 同部屋の住人たちはまだ寝ているようです。なるべく音を立てず、いそいそと身支度を整えて宿を後にします。ドミトリーのこういう一面だけはいつまでたっても慣れません。
宿を出て、まだ活動を始めずにいる人気のない街を歩きます。 この時間が僕は好きです。 なんだか良いことがありそうな気がしてくるんです。 「早起きは三文の徳」とかいう誰もが知っていることわざ。誰もが知っているけど、とても良いことわざだとは思いませんか。この言葉のおかげで、早起きをすると余計に清々しい気持ちになれます。 今日は昨日のゴール地点、四宮駅から再び歩きます。
そうして朝の人気のない街道を歩いていると、地図の街道を逸れた北に「天智天皇陵」と書かれているのが目に留まりました。 「天智天皇陵」どこかで聞いたことあるなぁ。 ※天智天皇は中臣鎌足と大化の改新を成し遂げた人物。動画で僕は「てんちてんのう」と言っていますが、正確には「てんぢてんのう」らしいです。 街道から少し外れるので、そのまま素通りしようか足を延ばそうかと迷いましたが、何かに導かれるように御陵に足を運びました。
そこに立った時、胸を鷲掴みにされたようでした。 森の中に真っ直ぐに伸びる参道。 そこにいるのは自分だけ。 朝の静寂の中、聞こえてくるのは鳥の囀りだけ。 その中をコツ・・コツ・・コツ・・と踏みしめて歩いていきます。 水面の上を波紋を静かに立てながら歩いているかの様です。 神聖とはこのことを言うのだろう。
真っ直ぐに伸びた参道の終わりには、一つの鳥居とその後ろに鬱蒼と茂る森がありました。 この先が天智天皇陵です。 天智天皇陵は、宮内庁が管理しているため、立ち入りや公開が厳しく制限されており、発掘調査や学術調査が許されていないのだそうです。未だ知られていない謎が多く眠っていることでしょう。
この静寂なくして体験し得なかったこの時間。 早起きは何物にも代...
Read more京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある第38代天智天皇御陵がある場所です。
天智天皇が奈良・飛鳥に日本初の水時計台を造ったことにちなみ、参道入口には石の日時計が立つ。参道を進むと拝所へ至る。天智天皇は大化の改新を断行、近江大津宮で天智7年(668)に即位。3年後に死去し、大化の改新のパートナー・中臣氏の邸宅があった山科に葬られたとされる。
古墳時代終末期のもので、正八角形の形をしている。一説によれば、天智天皇は山科の森へ狩猟に出かけてから消息不明になり、沓が発見された場所に墓が築かれたという。
聖徳太子しょうとくたいしの死後,蘇我氏そがしが勢力せいりょくを強め,太子の子の山背大兄王やましろのおおえのおうとその一族をほろぼすなど,天皇てんのう家をしのぐほどの力をもつようになった。中大兄皇子なかのおおえのおうじ(のちの天智天皇てんじてんのう)や中臣鎌足なかとみのかまたりらは,中国(隋ずいや唐とう)で政治せいじや文化を学んで帰国した留学生りゅうがくせいとともに,天皇てんのうを中心とする中央集権しゅうけん国家の建設けんせつをめざし,645(大化たいか1)年に蘇我氏そがしをたおし,政治せいじの改革かいかくに着手した。
アクセスは、 ■交通機関等 :京阪・市営地下鉄「御陵...
Read more考古学的には御廟野古墳(ごびょうのこふん)という名で呼ばれます。京阪・地下鉄東西線「御陵(みささぎ)」駅からすぐ。中大兄皇子として知られる第38代天智天皇は史上最も著名な天皇のうちのひとりです。父は舒明天皇、母は皇極重祚して斉明天皇の長兄として生を受けました。蘇我氏の専横を挫いた「大化の改新」、新羅・唐の連合軍と戦った「白村江の戦い」そして、それに伴う那大津(九州・博多)への遷都、母宮の二度に亘る践祚、大津京への遷都と即位、そしてその死後の壬申の戦いまで、また「庚午年籍」「漏刻(水時計)」なども、その事蹟として知られています。誰もが知る古代史の中で、そのきらびやかなページェントの中心的存在であり続けました。「扶桑略記」では「帝が馬に乗って山科の里まで遠出し、この場所で沓だけが発見された」というストーリーが描かれますが、これは天智帝の神格化のために創作されたものとなります。実際はこの御陵の位置は娘であった鸕野讚良皇女、のちの持統天皇が造影した藤原京の真北に位置し、しっかりとした意図を持って造営されたと見るべきでしょう。もちろん、こちらは宮内庁の管理となりますので、失礼のな...
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