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Mito Castle Ruins — Attraction in Mito

Name
Mito Castle Ruins
Description
Mito Castle was a 12th-century Japanese castle with an extensive history, now in ruins, located in what was Hitachi Province. The castle ruins are located in the city of Mito, Ibaraki Prefecture, Japan.
Nearby attractions
Kodokan
1 Chome-6-29 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
弘道館 正庁
1 Chome-6-29 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Kodokan Park
1 Chome-6-4 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Suifu Bridge
2 Chome-13 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Mito Toshogu
2 Chome-5-13 Miyamachi, Mito, Ibaraki 310-0015, Japan
Kodokan Octagonal Pavilion
1 Chome-6 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Mito Natto Memorial Statue
Japan, 〒310-0015 Ibaraki, Mito, Miyamachi, 1 Chome−7−44 COMBOX310(3F
Confucian Mausoleum
1 Chome-6 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Mito Low District Water Tower
2-11 Kitamicho, Mito, Ibaraki 310-0061, Japan
Nearby restaurants
Cotton Pot
2 Chome-5-7 Sakuragawa, Mito, Ibaraki 310-0801, Japan
割烹寿司 かぶと
3 Chome-8-17 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
中華園 珍満
2 Chome-5-25 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
カフェレストラン オールマスターズ
1 Chome-5-20 Sakumachi, Mito, Ibaraki 310-0802, Japan
Hitachino Brewing Mito
Japan, 〒310-0015 Ibaraki, Mito, Miyamachi, 1 Chome−7−31 エクセルみなみ 4F
つけめんTETSU 壱の木戸 水戸店
Japan, 〒310-0015 Ibaraki, Mito, Miyamachi, 1 Chome−7−31 エクセルみなみ 4F
Tenmasa
Japan, 〒310-0015 Ibaraki, Mito, Miyamachi, 2 Chome−2−31 三友ビル B1
Sushitoshi
2 Chome-8-8 Sakumachi, Mito, Ibaraki 310-0802, Japan
大香港厨房
1 Chome-7-31 Miyamachi, Mito, Ibaraki 310-0015, Japan
Ramen Taizan Mito Branch
Japan, 〒310-0015 Ibaraki, Mito, Miyamachi, 1 Chome−7−31 エクセルみなみ 4F
Nearby hotels
Business Hotel Kamoshita
Business Hotel Kamoshita, 2 Chome-1-29 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Sannomaru Hotel
2 Chome-1-1 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Hotel Terrace The Garden Mito
1 Chome-7-20 Miyamachi, Mito, Ibaraki 310-0015, Japan
Toyoko Inn Mito Station South Entrance
2 Chome-3-40 Sakuragawa, Mito, Ibaraki 310-0801, Japan
Mito Keisei Hotel
1 Chome-4-73 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
Mito Prince Hotel
2 Chome-2-11 Sakuragawa, Mito, Ibaraki 310-0801, Japan
JR-EAST HOTEL METS MITO
1 Chome-1-1 Miyamachi, Mito, Ibaraki 310-0015, Japan
Court Hotel Mito
2 Chome-8-22 Jonan, Mito, Ibaraki 310-0803, Japan
APA Hotel Mito Ekimae
1 Chome-1-6 Sakuragawa, Mito, Ibaraki 310-0801, Japan
Hotel Mito Silver Inn
2 Chome-3-38 Miyamachi, Mito, Ibaraki 310-0015, Japan
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Mito Castle Ruins
JapanIbaraki PrefectureMitoMito Castle Ruins

Basic Info

Mito Castle Ruins

2 Chome-9 Sannomaru, Mito, Ibaraki 310-0011, Japan
3.7(290)
Open 24 hours
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spot

Ratings & Description

Info

Mito Castle was a 12th-century Japanese castle with an extensive history, now in ruins, located in what was Hitachi Province. The castle ruins are located in the city of Mito, Ibaraki Prefecture, Japan.

Cultural
Outdoor
Scenic
Family friendly
attractions: Kodokan, 弘道館 正庁, Kodokan Park, Suifu Bridge, Mito Toshogu, Kodokan Octagonal Pavilion, Mito Natto Memorial Statue, Confucian Mausoleum, Mito Low District Water Tower, restaurants: Cotton Pot, 割烹寿司 かぶと, 中華園 珍満, カフェレストラン オールマスターズ, Hitachino Brewing Mito, つけめんTETSU 壱の木戸 水戸店, Tenmasa, Sushitoshi, 大香港厨房, Ramen Taizan Mito Branch
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Kodokan

弘道館 正庁

Kodokan Park

Suifu Bridge

Mito Toshogu

Kodokan Octagonal Pavilion

Mito Natto Memorial Statue

Confucian Mausoleum

Mito Low District Water Tower

Kodokan

Kodokan

4.2

(769)

Open 24 hours
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弘道館 正庁

弘道館 正庁

4.4

(179)

Closed
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Kodokan Park

Kodokan Park

4.2

(144)

Open 24 hours
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Suifu Bridge

Suifu Bridge

3.5

(24)

Open until 12:00 AM
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Things to do nearby

Includedで陶芸体験と陶芸美術館を楽しもう
Includedで陶芸体験と陶芸美術館を楽しもう
Sat, Dec 6 • 10:00 AM
309-1735, Ibaraki, Kasama, Japan
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Nearby restaurants of Mito Castle Ruins

Cotton Pot

割烹寿司 かぶと

中華園 珍満

カフェレストラン オールマスターズ

Hitachino Brewing Mito

つけめんTETSU 壱の木戸 水戸店

Tenmasa

Sushitoshi

大香港厨房

Ramen Taizan Mito Branch

Cotton Pot

Cotton Pot

4.3

(243)

$

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割烹寿司 かぶと

割烹寿司 かぶと

4.1

(39)

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中華園 珍満

中華園 珍満

3.8

(84)

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カフェレストラン オールマスターズ

カフェレストラン オールマスターズ

4.2

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ZEUS GOD WORLDZEUS GOD WORLD
徳川御三家、水戸徳川家の本拠地。 水戸城、別名馬場城、水府城 形式、連郭式平山城 天守閣 御三階櫓(独立式層塔型3重5階)※現在は無い。 ・水戸城の仕様 茨城県水戸市中心部。水戸駅片側にある丘陵部に築かれた連郭式平山城で、水戸市北部を流れる那珂川と南部にある千波湖を天然の堀として、台地東部を東二の丸、西に向かって本丸、二の丸、三の丸と配置され、それぞれに空堀で仕切り、城郭は主に土塁と空堀で構成された典型的な戦国期の戦闘仕様の城。普通江戸時代の城は守りを重きに入れた城や、権威を示す城が多い中、水戸城は特異な存在です。 ・歴史 水戸城の歴史は、かなり古く平安時代にこの辺りを治めた豪族の馬場氏の館がありました。戦国時代に突入すると、その馬場氏を江戸氏が奪い、さらに後に秋田藩20万石の藩主となる佐竹氏が江戸氏を滅亡させた後に安土桃山時代に天下統一した豊臣秀吉公の命により、常陸国(現在の茨城県)、下野国(しもつけ・現在の栃木県)の一部、陸奥国(むつ・現在の青森県、宮城県、福島県)の一部合わせて54万石で入封します。水戸城は佐竹氏により築城され、城下町が整備、発展します。その後関ヶ原の合戦で西軍に属した佐竹氏は秋田藩に20万石に減封され、東北地方の外様大名の江戸(現在の東京)の守りの要として以降、徳川家の城となります。 最初は徳川家康公の10男で、後に紀州徳川家の藩祖となる徳川頼宣公が20万石で入封しますが、すぐに駿河国(現在の静岡県)駿府藩に50万石で移封します。そして徳川家康公の11男の徳川頼房公が25万石で入封します(後に35万石に加増される)。 これにより、徳川御三家は尾張国(現在の愛知県)尾張藩、紀州国(現在の和歌山県)和歌山藩と並ぶ徳川の水戸家の居城となり、城下町もさらに発展しました。 水戸藩の藩主は参勤交代制の特例の江戸定府の大名(つまり、常に江戸に住んでいる大名 だから天下の副将軍という異名があります。)であったため、水戸城が藩主の居城として使われることが少なく、城内は大名の城にしては質素なものであったと伝わっています。 水戸藩の政庁は、二の丸付近にあり現在は茨城県立第3高等学校と国立茨城大学教育学部附属小学校に跨がる形で広大な御殿がありました。その関係上本来は本丸にあるはずの天守閣が二の丸付近にあるのが、その理由です。三の丸にも御殿が存在しましたが、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が漢文学、武道、諸科学、諸学問、そして斉昭公が水戸藩第2代藩主徳川光圀公の大日本史から影響を受けた水戸学の教育、研究の場として、藩校となる弘道館を建設しました。 ・天守閣 本丸ではなく二の丸に存在した天守閣。正式には御三階櫓と称して内部は3重5階構造。 普通、天守閣というと石垣の上に建てられているのが9割を占めますが、水戸城は石垣の上ではなく地面の上に直接建つ独立式層塔型の櫓という珍しいものでした。 ・巨大な堀 見どころの一つですが、本丸と二の丸、三の丸を仕切る空堀が現在もあり、かなり壮観なものなので水戸城に来た時は観て欲しいのですが、水戸城内には県道232号線とJR水郡線に架かる橋があります。実は、これが本丸、二の丸、三の丸を仕切る空堀で城の直下を走る県道とJR線からの高低差が大変壮観ですので、是非水戸城に来た際はこれを観て欲しいです。 ・復元 2015年(平成27年)杉山門 2020年(令和2年)大手門 2021年(令和3年)二の丸隅櫓、土塀が復元されました。 ・水戸徳川家の名君 徳川光圀公…寛永5年(1628年)初代藩主徳川頼房公の三男として産まれ、水戸藩第二代藩主となる。字(あざな)、子龍、号、梅里。神号、高譲味道根之命(たかゆずるうましみちのみこと)徳川家康公の孫にあたり、儒学を推奨し、大日本史を編纂し水戸学の基礎を作る。産まれは城内でも江戸藩邸でなく、家老三木之次(みき・のりつぐ)の屋敷で産声をあげる。なんと頼房公が正室と正式に結婚するまえに、側室に産ませた子だったので。 本来、二男である兄頼重公(嫡男は幼世で他界)が水戸徳川家を継ぐはずだったが、頼房公から指名されたのが光圀公で、若き光圀公は兄頼重公を差し置いて藩主になってしまったことにより情緒不安定になり、若年の頃は不良集団のリーダーとなり派手な格好で出歩き、相撲で仲間が次々敗れたことに腹をたて、刀を振り回したり、江戸の遊郭である吉原に頻繁に繰り出したりをしました。 18歳になり、司馬遷の「史記」伯夷伝に感銘を受け勉学に励むようになります。 そして、後で兄頼重公や家族、子孫に禍根を残さないように、自身の子を兄頼重公の讃岐国(現在の香川県)高松藩へ養子にし、兄頼重公の子を自身の養子して、以降水戸藩、高松藩の嫡男を相互に養子にして禍根を残さないようにしました。この取り組みは以降4代まで続きます。4代後に水戸徳川家の男子が産まれない時期があり、分家の高松藩藩主自身が水戸徳川家に養子に入り、その高松藩藩主の弟が高松藩を継いでいます。 光圀公は学者肌の藩主で非常に好奇心が強く、日本で初めて、ラーメン、餃子、牛乳、チーズ、納豆、江戸時代当時は肉食を禁じていましたが、牛、豚、羊、犬肉等、肉食を好み、徳川第5代将軍徳川綱吉公が発布した「生類憐れみの令」をも完全に無視して肉食を楽しんでいました。ほかにオランダ製の靴下を履き、日本で初めてワインを飲み、朝鮮人参の栽培をしたり、鸚哥(インコ)を育てたりしました。 ※大日本史…徳川光圀公を語る上で外せないのが大日本史。時代劇水戸黄門の原案です。 これは、光圀公が国史編纂のために史局員の儒学者達を日本各地に派遣して資料を作らせました。光圀公自身も若年時代に鎌倉や、藩主時代に経験した江戸〜水戸までの往来や領内巡察をしましたが、時代劇のような諸国漫遊の記録は一切なく、時代劇水戸黄門は完全なフィクションで、作中は徒歩移動していますが、実際には馬や籠で移動していたそうです。光圀公は江戸時代に既に名君としての名声があり、庶民の知名度が高かったため、その人徳にあやかり、水戸黄門漫遊譚たる水戸黄門人徳録が成立しました。これであたかも光圀公が諸国を漫遊しているかのような作品になった訳です。 では、作中の格さん、助さんのモデル 格さんこと、渥美格之進の実際のモデルは、安積覚兵衛澹泊(あさか・かくべえ・たんぱく)で石高300石。彰考館史館編纂総裁という役に就く藩士で、性格はおおらかで、正直で、細かいことにこだわらなく、酒をよく飲み、菊づくりが趣味だった。 助さんこと佐々木助三郎の実際のモデルは、佐々介三郎宗淳(さっさ・すけさぶろう・むねきよ)で石高300石。戦国武将佐々成政の実姉の曾孫にあたる人物で、15歳の時に臨済宗妙心寺の僧で、延宝元年(1673年)に34歳の時に還俗し、水戸藩に仕官して進物番兼史館編纂員となる。元禄元年(1688年)に史館総裁となり、その後光圀公の近習となり、光圀公とともに隠居所の西山荘に赴く。 徳川斉昭公…寛政12年(1800年)、徳川治紀(はるとし)の三男と産まれる。当初は松平利教(としのり)と名乗る。藩主になり斉昭と改名する。将軍後継者争いで彦根藩主で大老の井伊直弼と政争に敗れ、蟄居となるも、藩政改革で多方面に大きな成果をあげ幕末の名君の一人になる。 ・家老が18人⁉ 中山備前守(15000石)、山野辺義堅(10000石)、鈴木重政(5000石)を中心に4000石以上の重臣が18人いました。 他にも、800石〜4000石クラスの上級武士が相当数いたそうです。 アクセス JR常磐線、JR水郡線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、水戸駅から徒歩8分です。
千葉落花生千葉落花生
水戸城跡 〒310-0011 茨城県水戸市三の丸2丁目9 茨城県の歴史散歩(株式会社山川出版社・2006年1月25日発行)のP4の「水戸城跡」の記述にも案内板の内容に近いことがかかれていますが、案内板の方がより詳しく書かれている気がします。 県指定 史跡 水戸城跡(塁(るい)及び濠) 所在地 水戸市三の丸一丁目 指定年月日 昭和四十二年十一月二十四日 この場所は、旧水戸城三之丸の西端に造られた空堀の跡である。水戸城の歴史は、平安末期から鎌倉初期の頃に、馬場小次郎資幹(すけもと)が東西に長い台地の東端に館(たて・たち・やかた)を築いた ことに始まる。その後、室町中期の応永年間頃に、河和田城主江戸通房(みちふさ)が馬場館(水戸城)を襲撃して城主となり、百六十余年間にわたって江戸氏の水戸城支配が続いた。しかし、戦国末期の天正十八年(一五九〇)十二月に常陸太田の佐竹氏が水戸城を急襲攻略、翌年三月に佐竹義宣が入城して、水戸城は、佐竹氏支配の時代へと移る。義宣は、一段低い丘の東端を下之丸(したのまる)、その上の段丘を本丸、堀を越えて二之丸、その西側に三之丸の郭を造るなど城郭の整備を進めていったが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に際し、徳川家康方に参陣しなかったため、慶長七年に突然秋田への国替えを命ぜられ、佐竹氏による水戸城支配は、実質十二年間で終りを告げた。 豊臣氏没落後、東北諸大名の押さえとして水戸を重視した徳川家康によって、まず五男武田信吉が、次いで十男徳川頼将(よりまさ)(頼宣(よりのぶ))が封ぜられたが、慶長十四年(一六〇九)に十一男の徳川頼房が城主となるに及んで、水戸城は、明治初年まで水戸徳川家二六〇余年間の領内支配(二十八万石、のちに三十五万石)の中心となった。 頼房は、寛永二年(一六二五)頃から水戸城の大修築を行った。城郭としての構造は、佐竹氏の時代とほぼ同じで、東から下之丸、本丸、二の丸、三之丸がおかれ、水戸城の中心は二之丸であった。また、三之丸は北(きた)・中(なか)・南(みなみ)の三地区に分かれ、重臣屋敷が甍(いらか)を並べていたが、九代藩主斉昭が天保十二年(一八四一)に、中三之丸の地に藩校弘道館を建設したことから、文教学問の中心地区が形成された。現在、水戸城跡の史跡指定区域は、本城桝形及び土塁(水戸一高)、大手門桝形及び土塁(茨大付属小、水戸二中)、県庁正門の土塁・空堀の三か所となっている。 <旧水戸城三之丸空堀跡> 三之丸西側のこの空堀跡は、台地を掘削して造成された水戸城外堀で城内と町屋地区とを区画する重要な役割を持っており、古絵図を見ると空堀であったことがわかる。また、水戸城の塁壁(るいへき)は全体が土塁と土の堀で、石垣は構築されなかった。ただし、家康や三代将軍家光の頃に、二度ほど石垣構築の命が出され、一部石材の準備もなされたが、実現を見なかったと伝えられている。今に残る三之丸西側の空堀跡は、往時の水戸城を偲ばせる貴重な史跡であり、春の桜花や秋の黄銀杏(きいちょう)の彩(いろど)りも見事な場所である。 茨城県 茨城県教育委員会
アニャーアニャー
徳川御三家・水戸徳川家の居城として知られています。 その歴史は古く、平安時代に遡ります。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹によって建久年間に築かれたと言われています。大掾氏(馬場氏)の居城となったことから馬場城とも呼ばれていたそうです。 室町時代の1416年に上杉禅秀の乱が勃発。大掾満幹は上杉禅秀に加担しましたが、室町幕府側についた江戸通房に敗れ、城主は江戸氏に替わりました。江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立します。 1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の際、江戸重通は北条氏側に加担。佐竹義重・義宣親子は豊臣秀吉に加担しました。佐竹氏は常陸国54万石を与えられると、江戸氏の籠城する馬場城を攻め、重通を破りました。義宣は太田城から水戸城へ拠点を移しますが、関ヶ原の戦いで事実上の中立を維持したことから徳川家康によって秋田へと転封されました。 徳川家康は五男の武田信吉を15万石で水戸に入場させましたが、子がいないまま没したため、十男の徳川頼宣を20万石で入城させました。しかし、頼宣は駿府に去り、家康の十一男・頼房が25万石で入城。それ以降、明治維新まで水戸徳川家の居城となりました。 頼房は二の丸に居住し、城と城下町を拡充させますが、幕府に憚って天守は置かず、巨大な御三階櫓を二の丸に建造しました。櫓や多聞(長屋)を極力少なくして塀を多用する質朴さが水戸城の特徴です。また、水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名なので藩主の居城として使われる機会が少なかったのも水戸城が質素だった理由の一つに挙げられます。 その後、9代藩主の徳川斉昭は1841年に弘道館を、翌年には後に日本三大庭園と称せられる偕楽園を創設しました。 幕末の水戸藩では改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起き、天狗党は筑波山で挙兵(天狗党の乱)。幕府・水戸藩らとの戦闘の末に敗れた天狗党は352人が斬首されました。対立は明治維新まで続き、1868年に弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃。そのときに城内の建物の多くが消失しました。 水戸城は1871年に廃城。東京鎮台の第4分営となります。1945年の水戸空襲では御三階櫓が消失してしまいました。平成に入ってからは大手門や二の丸角櫓などの整備計画が出され、2020年に大手門が、翌年には二の丸角櫓が復元されました。 お城といえば天守閣のあるお城を思い浮かべますが、水戸城にはそもそも天守閣がありませんし、代わりの御三階櫓も焼失しましたので、熊本城や姫路城と比べると派手さはありませんが、深いお堀などからここが大きなお城であったことが分かります。とても広々としていて開放感があり、お城のスケールの大きさも感じられるのではないでしょうか。 城跡には教育施設が集まっているので見学できるところとできないところがありますのでご注意を。
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徳川御三家、水戸徳川家の本拠地。 水戸城、別名馬場城、水府城 形式、連郭式平山城 天守閣 御三階櫓(独立式層塔型3重5階)※現在は無い。 ・水戸城の仕様 茨城県水戸市中心部。水戸駅片側にある丘陵部に築かれた連郭式平山城で、水戸市北部を流れる那珂川と南部にある千波湖を天然の堀として、台地東部を東二の丸、西に向かって本丸、二の丸、三の丸と配置され、それぞれに空堀で仕切り、城郭は主に土塁と空堀で構成された典型的な戦国期の戦闘仕様の城。普通江戸時代の城は守りを重きに入れた城や、権威を示す城が多い中、水戸城は特異な存在です。 ・歴史 水戸城の歴史は、かなり古く平安時代にこの辺りを治めた豪族の馬場氏の館がありました。戦国時代に突入すると、その馬場氏を江戸氏が奪い、さらに後に秋田藩20万石の藩主となる佐竹氏が江戸氏を滅亡させた後に安土桃山時代に天下統一した豊臣秀吉公の命により、常陸国(現在の茨城県)、下野国(しもつけ・現在の栃木県)の一部、陸奥国(むつ・現在の青森県、宮城県、福島県)の一部合わせて54万石で入封します。水戸城は佐竹氏により築城され、城下町が整備、発展します。その後関ヶ原の合戦で西軍に属した佐竹氏は秋田藩に20万石に減封され、東北地方の外様大名の江戸(現在の東京)の守りの要として以降、徳川家の城となります。 最初は徳川家康公の10男で、後に紀州徳川家の藩祖となる徳川頼宣公が20万石で入封しますが、すぐに駿河国(現在の静岡県)駿府藩に50万石で移封します。そして徳川家康公の11男の徳川頼房公が25万石で入封します(後に35万石に加増される)。 これにより、徳川御三家は尾張国(現在の愛知県)尾張藩、紀州国(現在の和歌山県)和歌山藩と並ぶ徳川の水戸家の居城となり、城下町もさらに発展しました。 水戸藩の藩主は参勤交代制の特例の江戸定府の大名(つまり、常に江戸に住んでいる大名 だから天下の副将軍という異名があります。)であったため、水戸城が藩主の居城として使われることが少なく、城内は大名の城にしては質素なものであったと伝わっています。 水戸藩の政庁は、二の丸付近にあり現在は茨城県立第3高等学校と国立茨城大学教育学部附属小学校に跨がる形で広大な御殿がありました。その関係上本来は本丸にあるはずの天守閣が二の丸付近にあるのが、その理由です。三の丸にも御殿が存在しましたが、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が漢文学、武道、諸科学、諸学問、そして斉昭公が水戸藩第2代藩主徳川光圀公の大日本史から影響を受けた水戸学の教育、研究の場として、藩校となる弘道館を建設しました。 ・天守閣 本丸ではなく二の丸に存在した天守閣。正式には御三階櫓と称して内部は3重5階構造。 普通、天守閣というと石垣の上に建てられているのが9割を占めますが、水戸城は石垣の上ではなく地面の上に直接建つ独立式層塔型の櫓という珍しいものでした。 ・巨大な堀 見どころの一つですが、本丸と二の丸、三の丸を仕切る空堀が現在もあり、かなり壮観なものなので水戸城に来た時は観て欲しいのですが、水戸城内には県道232号線とJR水郡線に架かる橋があります。実は、これが本丸、二の丸、三の丸を仕切る空堀で城の直下を走る県道とJR線からの高低差が大変壮観ですので、是非水戸城に来た際はこれを観て欲しいです。 ・復元 2015年(平成27年)杉山門 2020年(令和2年)大手門 2021年(令和3年)二の丸隅櫓、土塀が復元されました。 ・水戸徳川家の名君 徳川光圀公…寛永5年(1628年)初代藩主徳川頼房公の三男として産まれ、水戸藩第二代藩主となる。字(あざな)、子龍、号、梅里。神号、高譲味道根之命(たかゆずるうましみちのみこと)徳川家康公の孫にあたり、儒学を推奨し、大日本史を編纂し水戸学の基礎を作る。産まれは城内でも江戸藩邸でなく、家老三木之次(みき・のりつぐ)の屋敷で産声をあげる。なんと頼房公が正室と正式に結婚するまえに、側室に産ませた子だったので。 本来、二男である兄頼重公(嫡男は幼世で他界)が水戸徳川家を継ぐはずだったが、頼房公から指名されたのが光圀公で、若き光圀公は兄頼重公を差し置いて藩主になってしまったことにより情緒不安定になり、若年の頃は不良集団のリーダーとなり派手な格好で出歩き、相撲で仲間が次々敗れたことに腹をたて、刀を振り回したり、江戸の遊郭である吉原に頻繁に繰り出したりをしました。 18歳になり、司馬遷の「史記」伯夷伝に感銘を受け勉学に励むようになります。 そして、後で兄頼重公や家族、子孫に禍根を残さないように、自身の子を兄頼重公の讃岐国(現在の香川県)高松藩へ養子にし、兄頼重公の子を自身の養子して、以降水戸藩、高松藩の嫡男を相互に養子にして禍根を残さないようにしました。この取り組みは以降4代まで続きます。4代後に水戸徳川家の男子が産まれない時期があり、分家の高松藩藩主自身が水戸徳川家に養子に入り、その高松藩藩主の弟が高松藩を継いでいます。 光圀公は学者肌の藩主で非常に好奇心が強く、日本で初めて、ラーメン、餃子、牛乳、チーズ、納豆、江戸時代当時は肉食を禁じていましたが、牛、豚、羊、犬肉等、肉食を好み、徳川第5代将軍徳川綱吉公が発布した「生類憐れみの令」をも完全に無視して肉食を楽しんでいました。ほかにオランダ製の靴下を履き、日本で初めてワインを飲み、朝鮮人参の栽培をしたり、鸚哥(インコ)を育てたりしました。 ※大日本史…徳川光圀公を語る上で外せないのが大日本史。時代劇水戸黄門の原案です。 これは、光圀公が国史編纂のために史局員の儒学者達を日本各地に派遣して資料を作らせました。光圀公自身も若年時代に鎌倉や、藩主時代に経験した江戸〜水戸までの往来や領内巡察をしましたが、時代劇のような諸国漫遊の記録は一切なく、時代劇水戸黄門は完全なフィクションで、作中は徒歩移動していますが、実際には馬や籠で移動していたそうです。光圀公は江戸時代に既に名君としての名声があり、庶民の知名度が高かったため、その人徳にあやかり、水戸黄門漫遊譚たる水戸黄門人徳録が成立しました。これであたかも光圀公が諸国を漫遊しているかのような作品になった訳です。 では、作中の格さん、助さんのモデル 格さんこと、渥美格之進の実際のモデルは、安積覚兵衛澹泊(あさか・かくべえ・たんぱく)で石高300石。彰考館史館編纂総裁という役に就く藩士で、性格はおおらかで、正直で、細かいことにこだわらなく、酒をよく飲み、菊づくりが趣味だった。 助さんこと佐々木助三郎の実際のモデルは、佐々介三郎宗淳(さっさ・すけさぶろう・むねきよ)で石高300石。戦国武将佐々成政の実姉の曾孫にあたる人物で、15歳の時に臨済宗妙心寺の僧で、延宝元年(1673年)に34歳の時に還俗し、水戸藩に仕官して進物番兼史館編纂員となる。元禄元年(1688年)に史館総裁となり、その後光圀公の近習となり、光圀公とともに隠居所の西山荘に赴く。 徳川斉昭公…寛政12年(1800年)、徳川治紀(はるとし)の三男と産まれる。当初は松平利教(としのり)と名乗る。藩主になり斉昭と改名する。将軍後継者争いで彦根藩主で大老の井伊直弼と政争に敗れ、蟄居となるも、藩政改革で多方面に大きな成果をあげ幕末の名君の一人になる。 ・家老が18人⁉ 中山備前守(15000石)、山野辺義堅(10000石)、鈴木重政(5000石)を中心に4000石以上の重臣が18人いました。 他にも、800石〜4000石クラスの上級武士が相当数いたそうです。 アクセス JR常磐線、JR水郡線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、水戸駅から徒歩8分です。
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水戸城跡 〒310-0011 茨城県水戸市三の丸2丁目9 茨城県の歴史散歩(株式会社山川出版社・2006年1月25日発行)のP4の「水戸城跡」の記述にも案内板の内容に近いことがかかれていますが、案内板の方がより詳しく書かれている気がします。 県指定 史跡 水戸城跡(塁(るい)及び濠) 所在地 水戸市三の丸一丁目 指定年月日 昭和四十二年十一月二十四日 この場所は、旧水戸城三之丸の西端に造られた空堀の跡である。水戸城の歴史は、平安末期から鎌倉初期の頃に、馬場小次郎資幹(すけもと)が東西に長い台地の東端に館(たて・たち・やかた)を築いた ことに始まる。その後、室町中期の応永年間頃に、河和田城主江戸通房(みちふさ)が馬場館(水戸城)を襲撃して城主となり、百六十余年間にわたって江戸氏の水戸城支配が続いた。しかし、戦国末期の天正十八年(一五九〇)十二月に常陸太田の佐竹氏が水戸城を急襲攻略、翌年三月に佐竹義宣が入城して、水戸城は、佐竹氏支配の時代へと移る。義宣は、一段低い丘の東端を下之丸(したのまる)、その上の段丘を本丸、堀を越えて二之丸、その西側に三之丸の郭を造るなど城郭の整備を進めていったが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦に際し、徳川家康方に参陣しなかったため、慶長七年に突然秋田への国替えを命ぜられ、佐竹氏による水戸城支配は、実質十二年間で終りを告げた。 豊臣氏没落後、東北諸大名の押さえとして水戸を重視した徳川家康によって、まず五男武田信吉が、次いで十男徳川頼将(よりまさ)(頼宣(よりのぶ))が封ぜられたが、慶長十四年(一六〇九)に十一男の徳川頼房が城主となるに及んで、水戸城は、明治初年まで水戸徳川家二六〇余年間の領内支配(二十八万石、のちに三十五万石)の中心となった。 頼房は、寛永二年(一六二五)頃から水戸城の大修築を行った。城郭としての構造は、佐竹氏の時代とほぼ同じで、東から下之丸、本丸、二の丸、三之丸がおかれ、水戸城の中心は二之丸であった。また、三之丸は北(きた)・中(なか)・南(みなみ)の三地区に分かれ、重臣屋敷が甍(いらか)を並べていたが、九代藩主斉昭が天保十二年(一八四一)に、中三之丸の地に藩校弘道館を建設したことから、文教学問の中心地区が形成された。現在、水戸城跡の史跡指定区域は、本城桝形及び土塁(水戸一高)、大手門桝形及び土塁(茨大付属小、水戸二中)、県庁正門の土塁・空堀の三か所となっている。 <旧水戸城三之丸空堀跡> 三之丸西側のこの空堀跡は、台地を掘削して造成された水戸城外堀で城内と町屋地区とを区画する重要な役割を持っており、古絵図を見ると空堀であったことがわかる。また、水戸城の塁壁(るいへき)は全体が土塁と土の堀で、石垣は構築されなかった。ただし、家康や三代将軍家光の頃に、二度ほど石垣構築の命が出され、一部石材の準備もなされたが、実現を見なかったと伝えられている。今に残る三之丸西側の空堀跡は、往時の水戸城を偲ばせる貴重な史跡であり、春の桜花や秋の黄銀杏(きいちょう)の彩(いろど)りも見事な場所である。 茨城県 茨城県教育委員会
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徳川御三家・水戸徳川家の居城として知られています。 その歴史は古く、平安時代に遡ります。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹によって建久年間に築かれたと言われています。大掾氏(馬場氏)の居城となったことから馬場城とも呼ばれていたそうです。 室町時代の1416年に上杉禅秀の乱が勃発。大掾満幹は上杉禅秀に加担しましたが、室町幕府側についた江戸通房に敗れ、城主は江戸氏に替わりました。江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立します。 1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の際、江戸重通は北条氏側に加担。佐竹義重・義宣親子は豊臣秀吉に加担しました。佐竹氏は常陸国54万石を与えられると、江戸氏の籠城する馬場城を攻め、重通を破りました。義宣は太田城から水戸城へ拠点を移しますが、関ヶ原の戦いで事実上の中立を維持したことから徳川家康によって秋田へと転封されました。 徳川家康は五男の武田信吉を15万石で水戸に入場させましたが、子がいないまま没したため、十男の徳川頼宣を20万石で入城させました。しかし、頼宣は駿府に去り、家康の十一男・頼房が25万石で入城。それ以降、明治維新まで水戸徳川家の居城となりました。 頼房は二の丸に居住し、城と城下町を拡充させますが、幕府に憚って天守は置かず、巨大な御三階櫓を二の丸に建造しました。櫓や多聞(長屋)を極力少なくして塀を多用する質朴さが水戸城の特徴です。また、水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名なので藩主の居城として使われる機会が少なかったのも水戸城が質素だった理由の一つに挙げられます。 その後、9代藩主の徳川斉昭は1841年に弘道館を、翌年には後に日本三大庭園と称せられる偕楽園を創設しました。 幕末の水戸藩では改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起き、天狗党は筑波山で挙兵(天狗党の乱)。幕府・水戸藩らとの戦闘の末に敗れた天狗党は352人が斬首されました。対立は明治維新まで続き、1868年に弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃。そのときに城内の建物の多くが消失しました。 水戸城は1871年に廃城。東京鎮台の第4分営となります。1945年の水戸空襲では御三階櫓が消失してしまいました。平成に入ってからは大手門や二の丸角櫓などの整備計画が出され、2020年に大手門が、翌年には二の丸角櫓が復元されました。 お城といえば天守閣のあるお城を思い浮かべますが、水戸城にはそもそも天守閣がありませんし、代わりの御三階櫓も焼失しましたので、熊本城や姫路城と比べると派手さはありませんが、深いお堀などからここが大きなお城であったことが分かります。とても広々としていて開放感があり、お城のスケールの大きさも感じられるのではないでしょうか。 城跡には教育施設が集まっているので見学できるところとできないところがありますのでご注意を。
アニャー

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Reviews of Mito Castle Ruins

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徳川御三家、水戸徳川家の本拠地。 水戸城、別名馬場城、水府城 形式、連郭式平山城 天守閣 御三階櫓(独立式層塔型3重5階)※現在は無い。

・水戸城の仕様 茨城県水戸市中心部。水戸駅片側にある丘陵部に築かれた連郭式平山城で、水戸市北部を流れる那珂川と南部にある千波湖を天然の堀として、台地東部を東二の丸、西に向かって本丸、二の丸、三の丸と配置され、それぞれに空堀で仕切り、城郭は主に土塁と空堀で構成された典型的な戦国期の戦闘仕様の城。普通江戸時代の城は守りを重きに入れた城や、権威を示す城が多い中、水戸城は特異な存在です。

・歴史 水戸城の歴史は、かなり古く平安時代にこの辺りを治めた豪族の馬場氏の館がありました。戦国時代に突入すると、その馬場氏を江戸氏が奪い、さらに後に秋田藩20万石の藩主となる佐竹氏が江戸氏を滅亡させた後に安土桃山時代に天下統一した豊臣秀吉公の命により、常陸国(現在の茨城県)、下野国(しもつけ・現在の栃木県)の一部、陸奥国(むつ・現在の青森県、宮城県、福島県)の一部合わせて54万石で入封します。水戸城は佐竹氏により築城され、城下町が整備、発展します。その後関ヶ原の合戦で西軍に属した佐竹氏は秋田藩に20万石に減封され、東北地方の外様大名の江戸(現在の東京)の守りの要として以降、徳川家の城となります。 最初は徳川家康公の10男で、後に紀州徳川家の藩祖となる徳川頼宣公が20万石で入封しますが、すぐに駿河国(現在の静岡県)駿府藩に50万石で移封します。そして徳川家康公の11男の徳川頼房公が25万石で入封します(後に35万石に加増される)。 これにより、徳川御三家は尾張国(現在の愛知県)尾張藩、紀州国(現在の和歌山県)和歌山藩と並ぶ徳川の水戸家の居城となり、城下町もさらに発展しました。

水戸藩の藩主は参勤交代制の特例の江戸定府の大名(つまり、常に江戸に住んでいる大名 だから天下の副将軍という異名があります。)であったため、水戸城が藩主の居城として使われることが少なく、城内は大名の城にしては質素なものであったと伝わっています。

水戸藩の政庁は、二の丸付近にあり現在は茨城県立第3高等学校と国立茨城大学教育学部附属小学校に跨がる形で広大な御殿がありました。その関係上本来は本丸にあるはずの天守閣が二の丸付近にあるのが、その理由です。三の丸にも御殿が存在しましたが、水戸藩第9代藩主徳川斉昭公が漢文学、武道、諸科学、諸学問、そして斉昭公が水戸藩第2代藩主徳川光圀公の大日本史から影響を受けた水戸学の教育、研究の場として、藩校となる弘道館を建設しました。

・天守閣 本丸ではなく二の丸に存在した天守閣。正式には御三階櫓と称して内部は3重5階構造。 普通、天守閣というと石垣の上に建てられているのが9割を占めますが、水戸城は石垣の上ではなく地面の上に直接建つ独立式層塔型の櫓という珍しいものでした。

・巨大な堀 見どころの一つですが、本丸と二の丸、三の丸を仕切る空堀が現在もあり、かなり壮観なものなので水戸城に来た時は観て欲しいのですが、水戸城内には県道232号線とJR水郡線に架かる橋があります。実は、これが本丸、二の丸、三の丸を仕切る空堀で城の直下を走る県道とJR線からの高低差が大変壮観ですので、是非水戸城に来た際はこれを観て欲しいです。

・復元 2015年(平成27年)杉山門 2020年(令和2年)大手門 2021年(令和3年)二の丸隅櫓、土塀が復元されました。

・水戸徳川家の名君 徳川光圀公…寛永5年(1628年)初代藩主徳川頼房公の三男として産まれ、水戸藩第二代藩主となる。字(あざな)、子龍、号、梅里。神号、高譲味道根之命(たかゆずるうましみちのみこと)徳川家康公の孫にあたり、儒学を推奨し、大日本史を編纂し水戸学の基礎を作る。産まれは城内でも江戸藩邸でなく、家老三木之次(みき・のりつぐ)の屋敷で産声をあげる。なんと頼房公が正室と正式に結婚するまえに、側室に産ませた子だったので。

本来、二男である兄頼重公(嫡男は幼世で他界)が水戸徳川家を継ぐはずだったが、頼房公から指名されたのが光圀公で、若き光圀公は兄頼重公を差し置いて藩主になってしまったことにより情緒不安定になり、若年の頃は不良集団のリーダーとなり派手な格好で出歩き、相撲で仲間が次々敗れたことに腹をたて、刀を振り回したり、江戸の遊郭である吉原に頻繁に繰り出したりをしました。

18歳になり、司馬遷の「史記」伯夷伝に感銘を受け勉学に励むようになります。

そして、後で兄頼重公や家族、子孫に禍根を残さないように、自身の子を兄頼重公の讃岐国(現在の香川県)高松藩へ養子にし、兄頼重公の子を自身の養子して、以降水戸藩、高松藩の嫡男を相互に養子にして禍根を残さないようにしました。この取り組みは以降4代まで続きます。4代後に水戸徳川家の男子が産まれない時期があり、分家の高松藩藩主自身が水戸徳川家に養子に入り、その高松藩藩主の弟が高松藩を継いでいます。

光圀公は学者肌の藩主で非常に好奇心が強く、日本で初めて、ラーメン、餃子、牛乳、チーズ、納豆、江戸時代当時は肉食を禁じていましたが、牛、豚、羊、犬肉等、肉食を好み、徳川第5代将軍徳川綱吉公が発布した「生類憐れみの令」をも完全に無視して肉食を楽しんでいました。ほかにオランダ製の靴下を履き、日本で初めてワインを飲み、朝鮮人参の栽培をしたり、鸚哥(インコ)を育てたりしました。 ※大日本史…徳川光圀公を語る上で外せないのが大日本史。時代劇水戸黄門の原案です。 これは、光圀公が国史編纂のために史局員の儒学者達を日本各地に派遣して資料を作らせました。光圀公自身も若年時代に鎌倉や、藩主時代に経験した江戸〜水戸までの往来や領内巡察をしましたが、時代劇のような諸国漫遊の記録は一切なく、時代劇水戸黄門は完全なフィクションで、作中は徒歩移動していますが、実際には馬や籠で移動していたそうです。光圀公は江戸時代に既に名君としての名声があり、庶民の知名度が高かったため、その人徳にあやかり、水戸黄門漫遊譚たる水戸黄門人徳録が成立しました。これであたかも光圀公が諸国を漫遊しているかのような作品になった訳です。 では、作中の格さん、助さんのモデル 格さんこと、渥美格之進の実際のモデルは、安積覚兵衛澹泊(あさか・かくべえ・たんぱく)で石高300石。彰考館史館編纂総裁という役に就く藩士で、性格はおおらかで、正直で、細かいことにこだわらなく、酒をよく飲み、菊づくりが趣味だった。

助さんこと佐々木助三郎の実際のモデルは、佐々介三郎宗淳(さっさ・すけさぶろう・むねきよ)で石高300石。戦国武将佐々成政の実姉の曾孫にあたる人物で、15歳の時に臨済宗妙心寺の僧で、延宝元年(1673年)に34歳の時に還俗し、水戸藩に仕官して進物番兼史館編纂員となる。元禄元年(1688年)に史館総裁となり、その後光圀公の近習となり、光圀公とともに隠居所の西山荘に赴く。

徳川斉昭公…寛政12年(1800年)、徳川治紀(はるとし)の三男と産まれる。当初は松平利教(としのり)と名乗る。藩主になり斉昭と改名する。将軍後継者争いで彦根藩主で大老の井伊直弼と政争に敗れ、蟄居となるも、藩政改革で多方面に大きな成果をあげ幕末の名君の一人になる。

・家老が18人⁉ 中山備前守(15000石)、山野辺義堅(10000石)、鈴木重政(5000石)を中心に4000石以上の重臣が18人いました。 他にも、800石〜4000石クラスの上級武士が相当数いたそうです。

アクセス JR常磐線、JR水郡線、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線、...

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水戸城跡 〒310-0011 茨城県水戸市三の丸2丁目9

茨城県の歴史散歩(株式会社山川出版社・2006年1月25日発行)のP4の「水戸城跡」の記述にも案内板の内容に近いことがかかれていますが、案内板の方がより詳しく書かれている気がします。

県指定 史跡 水戸城跡(塁(るい)及び濠) 所在地 水戸市三の丸一丁目 指定年月日 昭和四十二年十一月二十四日

この場所は、旧水戸城三之丸の西端に造られた空堀の跡である。水戸城の歴史は、平安末期から鎌倉初期の頃に、馬場小次郎資幹(すけもと)が東西に長い台地の東端に館(たて・たち・やかた)を築いた...

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徳川御三家・水戸徳川家の居城として知られています。 その歴史は古く、平安時代に遡ります。常陸国の大掾であった平国香の子孫である馬場資幹によって建久年間に築かれたと言われています。大掾氏(馬場氏)の居城となったことから馬場城とも呼ばれていたそうです。 室町時代の1416年に上杉禅秀の乱が勃発。大掾満幹は上杉禅秀に加担しましたが、室町幕府側についた江戸通房に敗れ、城主は江戸氏に替わりました。江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立します。 1590年の豊臣秀吉の小田原征伐の際、江戸重通は北条氏側に加担。佐竹義重・義宣親子は豊臣秀吉に加担しました。佐竹氏は常陸国54万石を与えられると、江戸氏の籠城する馬場城を攻め、重通を破りました。義宣は太田城から水戸城へ拠点を移しますが、関ヶ原の戦いで事実上の中立を維持したことから徳川家康によって秋田へと転封されました。 徳川家康は五男の武田信吉を15万石で水戸に入場させましたが、子がいないまま没したため、十男の徳川頼宣を20万石で入城させました。しかし、頼宣は駿府に去り、家康の十一男・頼房が25万石で入城。それ以降、明治維新まで水戸徳川家の居城となりました。 頼房は二の丸に居住し、城と城下町を拡充させますが、幕府に憚って天守は置かず、巨大な御三階櫓を二の丸に建造しました。櫓や多聞(長屋)を極力少なくして塀を多用する質朴さが水戸城の特徴です。また、水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名なので藩主の居城として使われる機会が少なかったのも水戸城が質素だった理由の一つに挙げられます。 その後、9代藩主の徳川斉昭は1841年に弘道館を、翌年には後に日本三大庭園と称せられる偕楽園を創設しました。 幕末の水戸藩では改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起き、天狗党は筑波山で挙兵(天狗党の乱)。幕府・水戸藩らとの戦闘の末に敗れた天狗党は352人が斬首されました。対立は明治維新まで続き、1868年に弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃。そのときに城内の建物の多くが消失しました。 水戸城は1871年に廃城。東京鎮台の第4分営となります。1945年の水戸空襲では御三階櫓が消失してしまいました。平成に入ってからは大手門や二の丸角櫓などの整備計画が出され、2020年に大手門が、翌年には二の丸角櫓が復元されました。 お城といえば天守閣のあるお城を思い浮かべますが、水戸城にはそもそも天守閣がありませんし、代わりの御三階櫓も焼失しましたので、熊本城や姫路城と比べると派手さはありませんが、深いお堀などからここが大きなお城であったことが分かります。とても広々としていて開放感があり、お城のスケールの大きさも感じられるのではないでしょうか。 城跡には教育施設が集まっているので見学できるところとできないところ...

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