旧オルト住宅は、グラバー園の南端にある洋館です。 木造、平屋建、屋根は寄棟造、桟瓦葺き、建築面積494.4平方m。附属屋は煉瓦造平屋建、桟瓦葺き、建築面積92.4平方mル。倉庫は煉瓦造平屋建、桟瓦葺き、建築面積12.5平方mです。 居住者のウィリアム・ジョン・オルトは安政年間(1859年頃)に長崎に来訪したイギリス人商人で、文久年間から慶応年間(1860年代)にかけて、南山手と大浦に製茶所をもっていました。 『外国人名員数書』という史料によると、慶応元年(1865年)にはこの住宅は「造作中」とされており、慶応3年(1867年)にはオルトが居住していました。その後、明治4年(1871年)の『長崎新報』にこの住宅の売却広告が出ていることから、その時点ではオルトは退去していたとみられます。当住宅は明治13年(1880年)から2年ほど活水女学校が使用しましたが、明治36年(1903年)には隣家のフレデリック・リンガーによって購入されています。同人は1907年に死去し、その後は長男のフレデリック・エラスムス・エドワード・リンガー(1888年 -...
Read moreThe Western-style bungalow was erected around 1868 and is a Nationally Designated Important Cultural Property. A front porch with gable roof and a wide veranda supported by Tuscan-style columns made from Amakusa sandstone give the house a distinctive appearance.
Unfortunately, the entire building is covered up and closed for viewing due to ongoing preservation work, which would not be completed...
Read moreウイリアム・ジョン・オルト(1840〜1908)はイングランド出身です。安政6年(1859年)に19歳で来日しました。長崎の三大女傑と言われている商人、大浦慶と手を組んで九州一円から茶を買い求め、日本茶を長崎ブランドとして世界に広めて実業家として成功しました。
「いろは丸沈没事件」ではいろは丸の倍賞問題について岩崎弥太郎が後藤象二郎、坂本龍馬と共にオルト邸を訪れ、イギリス提督と盃を交わしたと岩崎弥太郎日記に記されているそうです。 又、「イカルス号事件」の際には疑いのかけられた海援隊の無実を訴える為に弥太郎と共にイギリス領事館へ赴くなどしました。
旧オルト住宅は慶応元年(1865年)頃に大浦天主堂を手がけた同じ小山秀という人が建てました。列柱...
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