当寺の草創の年代は不明である。当時は真言宗に属し鷲巣山長祐寺と呼ばれていたが、永禄3年(1560年)桶狭間の戦いの際、鷲津砦の兵火で焼失。
江戸時代になり大高領主志水忠継の母である長寿院元操尼の遺命により延宝8年(1680年)、当地に愛知県春日井郡三淵村(現在の小牧市の一部)にあった、紫金山慈眼寺(臨済宗黄檗派)を移し、その慈眼寺を開山した越博紹付を迎え、当寺の開山とした。
天和2年(1682年)に伽藍を竣工し再興。このとき寺号を長寿寺、宗派を黄檗宗に改めた。その後当寺は一旦中絶したが元禄2年(1689年)、臨済宗興聖寺派の大本山である興聖寺から道雲石梯が訪れ中興開山した。後に元禄4年(1691年)、臨済宗永源寺派に再び改宗した。
なお、当寺は前述のとおり志水氏の菩提寺として、江戸時代には同氏一族の占有となっていたため、一般の檀家は少数である。また、寺域内には志水氏の9代から14代までの墓がある。
文化から文政年間(1804年から1829年頃)にかけて、知多四国霊場の87番札所として弘法堂が設けられた。
江戸時代末期から明治時代初期にかけて刊行された尾張国の地誌「尾張名所図会」に当寺の記述が境内の俯瞰図とともに収録されている。
明治21年(1888年)7月19日、火災により本堂および庫裡を焼失。この際、本尊は偶然寺の付近で東海道本線の工事をしていた作業員らにより運び出され、無事であった。その後明治31年(1898年)に新しい本堂、庫裡が再建された。このとき焼失を免れ残っていた山門(鐘楼門)は大正元年(1912年)の台風で倒壊し、後に再建された。
昭和20年(1945年)3月から5月にかけての名古屋大空襲によって山門その他諸堂や蔵などを焼失。貴重な資料の多くが失われた。
これらは戦後長らく焼失したままの状態であったが、昭和54年(1979年)、山門その他諸堂が再建され、現在の長寿寺が竣工した。
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Read moreExquisite red gates, a beautifully elegant main gate surrounded by old-growth forest makes for a truly...
Read more高蔵坊稲荷 鷲津山のふもとにあるここ長寿寺の伝説です。 昔むかし寺が傷んできても修理ができず住職の高蔵坊は困っていました。 その頃この山に一疋の狐が住んでおり、住職はこの狐をとても可愛がっていました。 いつしか住職の嘆きを知った狐は、ある日突然姿を住職に変え村々を巡ってこの寺の御利益(ごりやく)を説いて廻りました。 その結果、各地からお参りの人々がつぎつぎ訪れるようになり、寺は立派に修理できたということです。 村人はその狐を高蔵坊狐(こうぞうぼうぎつね)と呼び、ますます可愛がりました。その後村人は、お堂を建てこの狐を祀りました。 今も毎年三月第一日曜日、高蔵坊稲荷大祭が行われ、多くの参拝者で賑わいます。...
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