備中高松城(びっちゅうたかまつじょう)は、現在の岡山県岡山市北区高松にあった日本の城です。羽柴秀吉(豊臣秀吉)による水攻めという特異な戦いで知られ、その舞台となった城として歴史に名を刻んでいます。讃岐高松城(香川県高松市)と区別するため、「備中」を冠して呼ばれます。 概要: 築城時期: 天正年間(1573年~1592年)以前と推定されています。 築城者: 三村氏の家臣である石川氏によって築かれたと考えられています。 主な城主: 石川氏、清水宗治 形式: 平城 遺構: 土塁、堀跡、水攻め堤防跡(一部現存) 現状:...
Read more「備中高松城」に行ってきた。岡山には松山城(備中松山城)と高松城(備中高松城)がある。もちろん四国にも、松山城と高松城があるからややこしい。しかし、備中高松城も備中備中松山城も歴史的に有名で良い城だ。 「備中高松城」といえば「備中高松城の水攻め」で有名。近畿地方の平定に成功した「織田信長」が中国地方攻略による天下統一を狙い、1582年(天正10年)に「豊臣秀吉」に命じ、難攻不落と言われた「備中高松城」を、「水攻め」という奇策で攻略した戦い。 豊臣秀吉は姫路城から備中へ向け、20,000の軍を率いて出陣し、さらに宇喜多軍10,000の兵も加わり、総勢30,000の軍となって進軍。「備中高松城」は、湿地帯に築城された「沼城」で、沼地が天然の堀となっていたことから、鉄砲や騎馬戦法といった力攻めでは容易に破れない難攻不落の城。備中高松城の城主だった「清水宗治」は、3,000~5,000余りの兵と共に籠城し応戦。兵力差で見れば圧倒的に羽柴秀吉軍が有利でしたが、湿地帯という地の利もあり、さすがの秀吉も攻めあぐねていた。戦いが膠着状態となり、羽柴秀吉らが軍議を重ねる中、軍師の「黒田官兵衛」が水攻めと言う奇策を羽柴秀吉に進言。周囲の川の進路を変えるために城の周囲に堤防を築き、近くを流れる「足守川」を決壊させ、その水を城側に引き入れて城を水没させるという、まさに湿地という地勢を逆手に取った作戦だった。季節が梅雨の時期だったことも後押しとなり、この水攻め作戦は功を奏し、降り続いた雨によって足守川は増水。足守川の水が城の周りに引き入れられ、備中高松城は、みるみる湖に浮かぶ孤島と化し、城内も水浸しになった。 秀吉のもとに「織田信長が明智光秀に討たれた」と言う一報が入り、優位な立場で交渉を進められるはずだったが、主君・織田信長の敵討ちを最優先するため、毛利軍との戦いをいち早く終わらせる事を決意。織田信長の死を隠しながら、毛利氏に対して「3日以内に和睦すれば、領土も5ヵ国から備中、美作、伯耆の3ヵ国に譲歩し、兵士達も助ける。ただし、清水宗治の首を差し出せ」と言い渡し、清水宗治は主君である毛利氏の安泰と、城の兵士達のために切腹する。織田信長の仇・明智光秀を討つため、京都へと全軍を率いて進軍、中国地方から京都までおよそ230kmの距離をわずか10日で到着。これ...
Read more岡山県岡山市北区にある城跡です。備中高松城址公園として整備されていて、入場無料です。 真新しい資料館も出来ていてこちらも無料で映像や展示を見ることができます。綺麗なトイレもありました。 9月下旬の土曜日に訪れましたが、それほど観光客はおらず、ゆっくり見て廻ることができました。
高松城は羽柴秀吉の「高松城水攻め」で知られるお城で、築城年は不明ですが戦国大名の備中三村氏の重臣、石川久孝が築城した城です。 その後、三村氏が毛利氏に滅ぼされ石川久孝も討ち死にし、石川久孝の配下だった清水宗治が毛利氏の家臣となり高松城主を任されました。 三の丸・二の丸・本丸が並んで配置されていて周囲は湿地帯であり、天然のお堀として機能していましたが、梅雨時には湿地ゆえに水没させやすい地形だったようで、近年の洪水で同じように水没した写真も資料館に展示されています。 それにしても突貫工事で堤防を作って包囲した秀吉軍に対して、救援に来た毛利軍の小早川隆景・吉川元春らがなぜ戦おうとしなかったのか(資料館にも解説が展示されていますが)忠義を通した清水宗治が見殺しにされたのは少しモヤモヤしますね。
アクセスは車ですと国道180号線の最上稲荷入口交差点を曲がって、500mほど進んで案内板に従って左折すると到着できます。国道180号線の備中高松西交差点を曲がればまっすぐ到着しますが道が狭いです。 20台ほど停められる駐車場が無料で利用できます。 電車の場合はJR備中高松駅からは徒歩8分ほどで到着できます。
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