❷【参考 銅塚 不破の古跡 明治35年】
胴塚は関ケ原村大字関ケ原にあり、中山道の北側桶川の西岸にあり。土を堆し塚となし、一老桜を植え、かたわらに小観音あり。 関ケ原役戦死者の胴を埋めたるところなり。
❶【参考 西首塚 日本の首塚 1973年】
西首塚
東首塚にたいして街並みの西方にあたって国道に面した騒がしい場所にある。塚の前に小さな祀堂があり、その背後に古木がうっそうと枝を繁らせている。その下にはいくつかの五輪塔がたたずんで、何やら無気味な感じを添えている。
塚上には「柴之内 関ケ原合戦戦死者胴塚」と刻んでいる。明治35年(1902年)のものだが、当時はここを胴塚と称してきた。二つの塚に首と胴をわけて祀ったと考えたからだろう。だが、現在もこれを首塚と称しているのも特別に根拠のあることではないのだから、自余の塚に首塚とか胴塚とか、あるいは遺品を埋めた塚とかいうものがあったと考えても不思議ではない。
塚上の五輪塔はよそから持ち込んだ無縁塔だというが、形状から言ってとうじのものであって、まんざら...
Read more関ヶ原駅から国道21号線を西へ少し進んだところに位置するこの場所は、戦死者が埋葬された首塚として知られています。徳川家康の命により、当時の領主であった竹中重門が造営したこの首塚には、首のない遺体や名もなき兵士たちが眠っています。
訪れた日は晴天で、国道沿いの交通量が多いにもかかわらず、敷地内に入ると静寂が広がっていました。観音堂には馬頭観音や千手観音が安置されており、訪れる人々が手を合わせる姿が見られました。歴史の証人としてのこの場所は、関ヶ原の戦い...
Read more国指定・史跡天然記念物 2023年5月上旬、関ヶ原探訪の際に寄りました。 とても綺麗に整備されています。 説明板等によると 関ヶ原の戦い後、徳川家康の命により領主の竹中重門が、戦死した兵士たちを埋葬。 こちらから東側にも同様の塚があり、 こちらが西軍の兵士、東側は東軍の兵士という説があり。 またこちらには1793年以降観音堂が建立され、現在は千手観音と馬頭観音が併祀。 高さ2m、周囲30mの塚ですがが造営された際はも...
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