奥の細道 第17の段 「宮城野」 本丸の戌亥の方角に祀られた伊達家の氏神「亀岡八幡宮」。(こちらに祀られる前)霊亀が伊達家の祖朝宗の夢枕に現れてから戊辰戦争の戦火を免れるまで幾多の伊達家の危機を守護しました。これは、伊達家が誠意を以てお祀りして、神饌(しんせん)をそなえて神恩を感謝し、祈願した賜です。 ご神体は応神天皇(八幡大神)、神功皇后、玉依姫命です。これは八幡信仰の祖であります宇佐八幡宮(総本社:大分)の三柱のうち、比売大神を玉依姫命にしていることが特徴です。 そもそも伊達家は藤原北家山陰の裔とされますので、宇佐氏、源氏の守護である八幡宮を守護とするのは、頼朝の奥州藤原(北家秀郷裔)征伐の折、頼朝に従ったところに起因しているようです。余談ですが手前の先祖(北家利仁裔)も同じような理由で八幡宮を祀っています。 曾良旅日記に拠ると芭蕉一行は仙台の城下町に入った2日目にこちらを訪れています。 明治政府の政策でかつての城は国有地となり、現在、ノーベル賞受賞者を出した理科1科目受験の最高峰東北大学等となっていて城の縄張りはよく分かりませんが、曾良旅日記には大手(追手)から入るとありますので、「亀岡八幡宮」は城内あったように推測します。 仮に城外にあるならば、戦となったとき、攻め側がこちらに大筒を据えたならば、2の丸、3の丸は射程に入る高台を放置しないことが予想できることが理由です。 芭蕉が訪れたのは「亀岡八幡宮」がこの地に祀られて6年後でした。上記を考慮すると幕府から城内建立の許可を得たのは不思議です。(櫓を破棄して、神社を草創か?)芭蕉一行は伊達家の動向を査察する役目を帯びていたのかも知れません。 曾良旅日記には「天気能(良し:この表現は前に、栃木県黒磯市高久であり、本文記載なし、曾良旅日記記載と手前の過去の投稿有。所見は割愛)。・・・俄(にわか)に雨降ります。」とあります。ずいぶん前に地元の神官の方に伺ったお話ですが、このような事象が起こるのは相当なお力をお持ちのご神体ということです。「奥の細道」の物語には亀岡八幡宮の記載はありません。所見では書かなかったのではなく、神霊が強すぎて書けなかったと考えます。
歴史書や新聞の内容を理解するときは、その情報源をどういう背景、思想を持った人が書いたかを理解した上で読む必要があり、根拠の妥当性確認や、活字の巧みさに惑わされないことが重要です。 ここからの記載は素人でなければ書けない内容になりますので、話半分で読んで頂きたいです。 如是我聞。少なくとも日本に宿る神々は人々の幸不幸には直接関わっていません。誤解して頂きたくないのは、神々のお力が無いという訳ではなく、自主的に人々を救っていらっしゃらないということです。神々のお力をお借りするために、お祀りして、敬意をもって崇めているのです。畏れ多いことでありますが、根拠の例えとして、斎王を派遣しなくなった時期と武家が台頭してきた時期が重っています。 追加して書きますと、最も一般的な信仰、神仏からお受けます「お守り」などは最低でも月に1度は御助力を賜るご神体、御仏に感謝の意を表す必要があります。難しいことを言っている訳ではありません。月に一度はお守りに手を合わせて(合掌して)下さいということです。「お守り」は放っておきますと、1年程度で効力を失います。効力を失った後、希に邪霊が宿る事がありますので、速やかに承った神社仏閣にお戻しした方がよろしいかと思います。遠隔で受けた場合は近くの神社仏閣のご厚意で処理頂くか、それも叶わない場合は下記の方法で処理をお勧めします。邪霊より下級な人間が恐怖を煽って金を貪ることがありますのでくれぐれもご注意下さい。 本筋に戻りますと、家康が伊達政宗が欧州の軍勢を利用して倒幕の野心を持っていたことどの時点で気付いていたのでしょうか?仙台城は大津城で砲撃責めのあった関ヶ原の合戦後に許可を得て築城されていますが、港に近い平城で無く、港から離れた堅固な山城は莫大な費用と、伊達家取り潰しの口実を受けやすい城でもあります。 政宗は欧州を利用する腹づもりでしたでしょうが、実際、”一神教の神様のご加護が得られない哀れな奴ら”位にしか日本人を見ていない人に対等な取引ができるわけが無く、学術上の分類で日本民族と同じモンゴロイドの住む南米でそうしたような、ラダ・ビノード・パル氏曰く「本当の侵略」を受けていたのかもしれません。 趣味で歴史を読む者として、政宗の邪心を諫めた氏神様とこの地に宿る塩竃明神様の御力の大きさを感じずにはいられません。 そう考えるとこの氏神様は、今の日本の形を護ったのかもしれません。
<お守りの処理の仕方> 用意するもの:白い紙(半紙、コピー用紙で可)、塩(あれば荒塩)、封筒、糊もしくはテープ 1.水道水両手を洗い、口をすすぐ <簡易の禊ぎ> 2.Google Mapでお守りを受けた神社仏閣を確認し、縮小させて現在地と方角を確認する 3.白い紙の上にお守りを置き、2で確認した神社仏閣とお守り自分がおおよそ一直線になるようにする。(神社仏閣の方角に向く)<方向の確定> 4.手を合わせて(合掌)心の中で①~③をお伝えする。 ①神体、御仏 に敬意を表する ②守護頂いたお礼を述べる ③お札を廃する事をお伝えする 5.親指、人差し指、中指で塩をひとつまみとり、額の前に持ってきて、目を閉し、心の中でお守りに感謝と別れを告げる。 6.お守りつまんだ塩をかけ、塩共々白い紙に包む...
Read more表参道から行くと急階段が待ち構えています疲れるっす、裏参道が楽ですが道がものすごく狭いです3ナンバーはきついかも。 文治5年(1189、鎌倉)伊達朝宗相州鎌倉鶴ケ岡八幡宮を伊達郡高子村に勧請した。このとき霊亀出現、依って亀岡と称す。応永33年岡部梁川に遷座、天文元年伊達稙宗同郡西山城に遷し、又元亀2年同郡梁川に移す。天正中政宗伊達より岩手山に移る。上杉景勝の領地となったので、社司山田宮太夫清重これを憂い弟重之と相謀り、慶長6年密かに神体を護持して伊具郡丸森に到ってこれを政宗に告ぐ、同7年命じて仙台同心町(瀧沢神社)に仮宮を造り安鎮する。よって宮太夫に米三口を給す。寛永17年義山公(忠宗)社殿を経営し同年7月遷宮のことを行い、梁川今八幡と称す。同20年4月始めて神事を行い祭奠稟米五石を寄進す。天和元年7月肯山公(綱村)社を城坤河内の地に移し大いに土木を起し宮社を造営する。同3年8月落成15日遷宮して亀岡八幡宮と称し、祭料八石を増し、百石の地を敬進し宮太夫を山田土佐守と改称せしめ神職に定め三十石の地を給与す。更に社士10人、巫1人、洒掃1人をつけた。別当寺を亀岡山積宝寺千手院という。歴代の藩主の奉納品多きが中に刀剣、銘備前長船義光の一振は重要文化財に指定されている。(観蹟聞老志、名蹟志、封内風土記、社蔵記録)。明治4年7月村社に列す。昭和20年7月戦災を被り、旧社殿悉く焼失したので、一本杉の伊達家の氏神の社殿を移し本殿とし、新に幣殿、拝殿其の他の建物を造営して昭...
Read moreThis shrine is a magical place, as if you had entered a forest inside the city. Careful: there are something like 300 steps to get to the shrine and...
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