古代、国司には各国内の神社を巡拝する任務があった。これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。この制は平安時代に広まったものであるが、陸奥国の総社について当時の記録はない。 陸奥国府(多賀城)の近く、「奏社宮」と呼ばれていた当社を総社に比定する説が江戸時代から有力視されているが、当社で伝える古記録は失われており明らかでない。なお、鹽竈神社を総社とする説があるほか、『延喜式』神名帳に載る「多賀神社」を当社に比定する説もある。
鎌倉時代には、陸奥留守職に任じられて「留守」姓を名乗るようになった伊沢氏により崇敬を受け、祭祀料として3,000刈の社地が寄進されたという。 江戸時代になると仙台藩初代藩主の伊達政宗による領内寺社整備が行われ、法蓮寺(鹽竈神社別当)末寺の市川山神奏院が別当として置かれ社務が行われた。 『宮城県神社名鑑』によれば、奏社宮には歴代藩主の尊崇が篤く、親拝代参などがあったという。
明治維新後、明治4年(1871年)10月に近代社格制度において村社に列した。 明治41年(1908年)に貴船神社など7社が合祀されたほか、大正12年(1923年)8月には神饌幣帛料供進神社に指定された。
現在も安産守護・海上守護・歳徳・武徳・大難除けの神として崇敬されている。
主祭神:八塩道老翁神、八塩道老女神、また陸奥国内31郡の式内社100社の神霊を合わせ祀る。...
Read more20220917青森⇔宮城⇔山形800キロ日帰り弾丸ツアーに行って来ました! 来週末に少し早い冬支度をしに千葉の自宅に帰るので、その片道分を走る予行練習で先ずは宮城県の「鹽竈神社」で参拝を済ませ、前回素通りした「多賀城跡」に立ち寄ります! 途中、陸奥総社宮で参拝させて頂きました! 多賀城外郭東門跡の通り向かいに鎮座する、季節には「ハクレン」が綺麗な神社さんです! 金華山道沿いにある駐車場に車を停めて、参拝させて頂きました! 何と、陸奥国100社を合祀する神社との事です! 江戸時代には、鹽竈神社の14末社の一つであり、鹽竈神社参詣に先立って、まずこの総社宮に詣でなければ、神の加護が受けられないとされていたそうです! 参拝を済ませ、社務所で直書きの御朱印を拝受致しました!
陸奥総社宮:宮城県多賀城市市川字奏社1に鎮座 主祭神: 八塩道老翁神、八塩道老女神、また陸奥国内31郡の式内社100社の神霊を合わせ祀る。 ご由緒:古代「国司」...
Read more神名帳の陸奥國宮城郡の項に記載のある多賀神社の論社の一社。 宮城郡の多賀神社の論社はこの多賀城跡の周辺に3社あり(先日の浮嶋神社も論社とする説があり、その場合は4社)、そのうちの一社。 ・ 当社と荒脛巾神社は多賀城の北東、つまり鬼門の位置に鎮座していて、総社としての役割のほか、鬼門除け、蝦夷への防衛の意味もあったのだろう。 ・ 南に面していて、初冬の朝、陽の光を浴びて、紅葉がとても美しく輝いていた。 境内入口の鳥居の脇には陸奥國式内社の全100座(大社15、小社85)の社名と鎮座地が掲示されている。これは当社が陸奥國総社であることを示すもの。陸奥国府の多賀城の国司が国内の式内社への巡拝の手間を省くために、国内各地の神社を集めて勧請、合祀した。したがって当社の御祭神は陸奥國の式内社百座ということになる。 ・ 全国の総社はすでにあった国府近くの神社を総社として扱う場合(姫路の射楯兵主神社などなど)のほか、新たに社殿が設置された場合もある。当社の場合はどうかというと、徳川光圀公により編纂の始まった大日本史の神祇志には多賀神社は現在、市川村の奏社である、と書かれている。延喜式の成立年代と総社の成立年代(一番早くて11世紀末)を考えれば、当社はもともと式内社の多賀神社であり、その後、総社宮になった、ということになる。とはいえ、多賀城跡付近の多賀神社はどれが式内社なのか...
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