奥の細道 第18の段「壺の碑」 奥の細道では高さ6尺幅3尺(畳の大きさ、と言っても今の人は想像しずらいでしょうか?)とあり、芭蕉が見たのはこの碑かと思いますが、”苔を穿ちて文字幽也(石碑の苔を払って刻印がかすかに読めた)”とも書かれていますので、この石碑は芭蕉が訪れた後に建てられたものかもしれません。 ”四維国界の数理をしるす”とあり、四維(しゆゐ)は乾(北西)、坤(南西)、艮(東北)そして、巽(南東)を指し、国境の距離を記すということです。文献では 去京一千五百里 去蝦夷国界一百廿里 去常陸国界四百十二里 去下野国界二百七十四里 去靺鞨国界三千里 とあります。(靺鞨<まつかつ>は今の中国、ロシアの一部、高句麗の北にあった国) 読める範囲で記載は同じようです。 さらに書けば「つぼのいしぶみ」は多賀城の前栽(せんざい:前庭)の壺に書かれた文字で石碑でなかったというのが手前の考えです。つまり、芭蕉が 歌枕の「つぼのいしぶみ」と思っていたものは...
Read more21.壺の碑
【芭蕉自筆影印】 ①おくの細道紀行文 壺碑 市川村多賀城ニ有 つ本の石婦みハ 高サ六尺餘 横三尺計歟(カ) 苔越穿(ウガチ)て文字幽(カスカ)也 四維国界之数里を印(?)ス 此城 神亀元年 按察使鎮守苻将軍大野朝臣東人之所里也 天平宝字六年 参議東海東山節度使同将軍恵義朝臣?(?)修造而(?) 十二月一日と有 聖武皇帝乃御時尓あ多禮り む可しよ梨よみ置る哥枕 多く可多り傳ふといへとも 山崩川流て 道あら多ま里 石盤埋て土尓可く禮 木ハ老て若木尓可者禮者 時移里代變して 其跡堂し可ならぬ事乃み 爰至りてう多可ひ那き千歳の記念 今眼前尓古人の心を閲(ケミ)す 行脚の一徳 存命の悦 羈旅(キリョ)の労を王春禮て 泪も落類者可り也 (壺碑 市川村多賀城に有 つぼの石ぶみは、高さ六尺余、横三尺計歟(カ)。苔を穿(ウガチ)て文字幽(カスカ)也。四維国界之数里を印(?)す。此城、神亀元年、按察使鎮守苻将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣?(?)修造而(?)。十二月一日と有。聖武皇帝の御時にあたれり。むかしよりよみ置る歌枕、多くかたり伝ふといへども、山崩川流て、道あらたまり、石は埋て土にかくれ、木は老て若木にかはれば、時移り代変じて、其跡たしかならぬ事のみ。爰至りてうたがひなき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲(ケミ)す。行脚の一徳、存命の悦、羈旅(キリョ)の労をわすれて、泪も落るばかり也。)
【句碑】 ①壺碑(つぼのいしぶみ)(多賀城碑) 多賀城市市川字城前27付近 多賀城・覆(おおい)堂

阿や免草足尓結者武草鞋乃緒 (あやめ草足に結ばむ草鞋の緒)

【難解文字(?)】
朝臣?(?)修造而(?)
参考文字 「朝臣?(?)」 影印文字漢字変換なし 各種を調査・探求も見つからず 添付から「獦」 「朝」補充し「朝臣朝獦」
「而(?)」 添付から「也(?)」 「朝臣朝獦(?)修造也(?)」

《施設・句碑拡大写真はgoogle...
Read more1300年前の古代の道標。 文字数は僅かに141字。西面することを示す「西」の大書を除けば、わずか1ツイート分の文字数です。歌枕の「壷碑」として西行が訪れたとも言われ、松尾芭蕉が訪れたことでも有名です。
平城京から1,500里(1里=約535km) 蝦夷との国境から150里、 常陸国(茨城県)から412里、 下野国(栃木県)から274里、 靺鞨国(沿海州)から3,000里。
蝦夷国なんて、本当はありませんでした。様々なまつろわぬ異民族集団とは戦闘と融和を繰り返しながら、版図の中に組み入れていったという歴史があります。 靺鞨国は中国東北と北朝鮮との間にあった、渤海国の前身です。上京龍泉府までは直線でわずか1,200km。大陸まであまりに近い。 都から、故郷から遠く離れた悲哀を、未知の世界への入口と捉えるような、ぶっ飛んだポジティブさ。 石碑を建立したのはかの恵美押勝(藤原仲麻呂)の子、藤原朝獦。多賀城を豪華建築に建て替えて、後に父と共に反乱を起こして死んでいます。
間近に見れば、意外と大きくて圧倒されます。この碑を見るのが長年の夢でした。感無量です。 近くに多賀城史跡の展示施設を建築中で、2024年の多賀城創建1300年に向けて整備が進められています。 炎天下の週末でしたが、ボランティアガイドさんがおられて内容を説明してくれました。本当に...
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