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Shirakawa Komine Castle Ruins — Attraction in Shirakawa

Name
Shirakawa Komine Castle Ruins
Description
Komine Castle is a Japanese castle located in what is now the city of Shirakawa, southern Fukushima Prefecture, Japan. Throughout the middle to later Edo period, Komine Castle was home to the Abe clan, daimyō of Shirakawa Domain. It was also referred to as Shirakawa-Komine Castle or simply Shirakawa Castle.
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27-25 Aizumachi, Shirakawa, Fukushima 961-0075, Japan
中華料理アビラ
39 Nakamachikitaura, Shirakawa, Fukushima 961-0952, Japan
Manmaya
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Korai-ken
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かこい食堂
130-1 Tamachi, Shirakawa, Fukushima 961-0073, Japan
茶釜本店
55 Motomachi, Shirakawa, Fukushima 961-0905, Japan
Tsukiyomi Shokudo
175-36 Kinshoji, Shirakawa, Fukushima 961-0083, Japan
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Nearby hotels
白河ビジネスホテル
Japan, 〒961-0936 Fukushima, Shirakawa, Daikumachi, 24 中村ビル
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Shirakawa Komine Castle Ruins things to do, attractions, restaurants, events info and trip planning
Shirakawa Komine Castle Ruins
JapanFukushima PrefectureShirakawaShirakawa Komine Castle Ruins

Basic Info

Shirakawa Komine Castle Ruins

Kakunai, Shirakawa, Fukushima 961-0074, Japan
4.2(1.5K)
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Ratings & Description

Info

Komine Castle is a Japanese castle located in what is now the city of Shirakawa, southern Fukushima Prefecture, Japan. Throughout the middle to later Edo period, Komine Castle was home to the Abe clan, daimyō of Shirakawa Domain. It was also referred to as Shirakawa-Komine Castle or simply Shirakawa Castle.

Cultural
Outdoor
Family friendly
attractions: Joyama Park, Komine-jō Castle History Museum, restaurants: Kikuchu, ブラッスリー ラ・セゾン, Basho-tei, 中華料理アビラ, Manmaya, Korai-ken, かこい食堂, 茶釜本店, Tsukiyomi Shokudo, Kaede
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旅とグルメ人ken旅とグルメ人ken
白河結城氏等史跡 日本100名城。 白河城ともいう。 2016年10月30日来訪。 白河小峰城は、白河結城氏の城。 白河結城氏は、下総の結城氏から派生した氏族で、平安時代末期から鎌倉時代初期の有力御家人である小山朝光を祖としており、1289年頃、朝光が得た白河荘に孫の結城祐広が移り住み、白川城を拠点として、白河結城氏となった。 祐広の子、結城宗広は、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を掲げた事で起きた元弘の乱に際して、幕府の討伐軍として畿内に派遣されていたところ、後醍醐天皇の綸旨を受けて寝返り、新田義貞と共に鎌倉幕府を滅ぼした人物で、後醍醐天皇から信任を受け、北畠親房、顕家父子の奥州への下向に諸郡奉行として従い、奥州地方の統治を任され、1336年に足利尊氏が京都に攻め入った際には、北畠顕家と共に奥州を出発し、秀吉の中国大返しを凌ぐ1日平均40キロ弱の進軍速度で進軍し、途中鎌倉を落とし、足利尊氏を破り九州に追い落とした。 その後、尊氏が九州で再起して東上して来ると、再度顕家と共に奥州を起つが、足利勢に敗れ、東北で再起を試みるも、海上で遭難して果たせず、伊勢で亡くなった。 宗広の次男、結城親光も、足利尊氏に従い、六波羅探題攻めに参加、建武の親政では恩賞方、雑訴決断所、窪所の役人に任じられた。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、京都に入洛すると、親光は偽降して尊氏の暗殺を試みるが、偽降が露見し、惨殺された。親光は、楠正成、千種忠顕、名和長年と共に、後醍醐天皇に重用された家臣として「三木一草」と呼ばれた。 宗広の死後、白河結城氏は、宗広の嫡男、結城親朝の子、顕朝が継いだ。その為、1340年、親朝は小峰ヶ岡に築城して小峰城を築城し、小峰氏を称した。 親朝自身も、奥州府の式評定衆として、陸奥守である北畠親房、顕家父子を補佐し、周辺の北朝勢力と積極的に交戦し、南朝方として伊達氏を凌ぐ勢力を築き上げた。しかし、関東の常陸国に下向して同地で勢力を確保しようとしていた北畠親房の度重なる救援要請や、親房を追い落として近衛経忠を関東の南朝の盟主に担ぎ上げようとする藤一揆の動きに加え、北朝に通じた石川氏により自領を脅かされる危機に面した結果、小峰親朝は北朝に帰順、白河結城氏を継いだ子の顕朝もそれに倣い北朝に帰順した。 その後白河結城氏については、永享の乱で活躍し、宇都宮等綱の保護、分裂した那須氏の仲介、内乱になった蘆名氏への救援により、白河結城氏の影響力を増大させた6代当主直朝、周辺諸国との同盟により石川氏を取り込み、佐竹氏と争った7代当主政朝の代で最盛期を迎えるが、その後の内紛を契機に佐竹氏や那須氏等の周辺勢力からの侵攻を受け、弱体化する。 なお白河結城氏は、この斜陽の時期である永正年間(1504~1520年)の間に、本拠を小峰城に移している。 白河結城氏は、蘆名氏と婚姻関係を結び、佐竹氏や那須氏等と対抗したが、次第に佐竹氏に領土を削られ、佐竹義重の次男義広を養子に迎え佐竹氏に臣従、その義広が蘆名氏に養子入りして家督を継いだ事で白河結城氏当主に返り咲いた義親は、その後南奥州の覇権争いで伊達氏に押される佐竹氏を見限り、伊達氏の配下に下った。 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐において義親は、伊達政宗に秀吉への貢物を託し、小田原に軍を派遣しなかったところ、改易され所領を失い、大名としての白河結城氏はここで滅んでしまう。 その後の小峰城は、会津に入封した蒲生氏、上杉氏の領地の一部となるが、関ケ原の戦いが終わり、丹羽長重が初代白河藩主として赴任すると、長重は4年の歳月をかけて小峰城の大改修を行い、本丸、二の丸を総石構えとして、三の丸の一部にも石垣を施し、現在の小峰城を形作りました。東北地方では、このような総石構えの城は珍しく、盛岡城、若松城と並び、東北三名城にも数えられている。 その後は、奥州の玄関口を守備する重要な場所である事から、親藩や譜代大名が入れ替わり治める事となる。 中でも、1783年に白河藩主に就任した久松松平氏の松平定信は、天明の大飢饉で疲弊した自領に対し、米やその他食料等の確保、公共事業による失業者対策等、必要な施策を実行した事により、幕府からその治世を評価されて老中首座に就任、有名な寛政の改革を実行した。 将軍徳川家斉との対立により、老中首座の役目を終えて自藩の政事に戻った定信は、殖産興業や文化事業に力を入れ、白河の発展に寄与した。特に面白いのが、平安時代に廃れ、場所が不明となっていた白河の関の比定をしたり、武士も庶民も共に楽しむという「土民共楽」の理念の下、作庭された日本最古の公園である南湖公園でしょうか。 こうした定信公の功績が認められた為か、1823年、子の定永の代に、久松松平氏は伊勢桑名藩に返り咲くに至った。 久松松平氏の後に、武蔵国忍藩から白河藩に入封した阿部氏は、幕末まで治めることとなるが、1866年に棚倉藩に転封となり、二本松藩(丹羽氏)預かり地となった白河藩領は、戊辰戦争の白河口の戦いで焼失、落城した。 この城に赴いたのは、3ヶ月程仕事で東京に派遣されている時で、ストレス発散の為に思い付きで白河の関に行ってみようという気になり、初めて東北の地を踏むという事で、わくわくしながら新幹線で向かいました。白河の関に寄ったその帰りに、小峰城が駅から近かったのでちょっと寄っていってみようかと思い、立ち寄りましたが、とにかく石垣が立派でとても美しく、また復元された木造天守(御三階櫓)が青空に映えて、とても感動しました。 是非、白河結城氏や松平定信公の歴史を偲びながら小峰城を訪ねてみてはいかがでしょうか。
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白河小峰城 別名白河城、小峰城 城の形態 梯郭式平山城 天守閣 複合式層塔型3重3階三重櫓「=通称 御三階櫓」 ・白河藩史 戦国期〜安土桃山時代は会津領の一部で、伊達家、上杉家、蒲生家、それぞれの超有力大名達の支配下にあり、白河藩として独立したのは江戸時代に入ってからになります。 寛永4年(1627年)陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)棚倉藩より丹羽長重が10万余石で入封し白河藩が成立します。長重は直ぐに白河城築城と城下町整備に着手します。2代当主丹羽光長になり、光長は寛永20年(1643年)に白河からほど近い二本松に転封します。 ここから、白河藩は東北の有力外様大名である弘前の津軽氏、盛岡の南部氏、秋田の佐竹氏、仙台の伊達氏、二本松の丹羽氏を迎え撃つための要衝の役割をするために徳川家の有力譜代大名が数多く入封する地となります。 丹羽氏の替わりに上野国(こうずけ、現在の群馬県)館林藩より榊原忠次が14万石で入封します。榊原忠次は徳川家康公の姪子にあたることから一代限りの松平姓を許された人物で徳川四天王と呼ばれる。井伊家、本多家、酒井家と並ぶ徳川名門家でした。慶安2年(1649年)播磨国(現在の兵庫県)姫路藩へ転封します。 榊原家の替わりに越後国(現在の新潟県)村上藩より本多忠義が12万石で入封します。新田開発や再検知を行い実高37000石を加えたが、年貢増により領民の反発と減免を求める訴えを江戸幕府に願い出たため、2代当主の本多忠平の時の天和元年(1681年)の時に下野国(しもつけ、現在の栃木県)宇都宮藩へ転封します。 本多家の替わりに入封したのが奥平松平家の松平忠弘が15万石で入封しますが、忠弘は病気を患い療養しているさなか、家老の奥平金弥と同じ家老の黒屋数馬が対立し、お家騒動を起こしてしまい、家臣の監督不行を理由に減封の処分をされ、出羽国(現在の秋田県、山形県)山形藩へ転封します。そして忠弘の子孫にも備後国(現在の広島県の一部、岡山県の一部)福山藩、伊勢国(現在の三重県)桑名藩移封を次々に命じられるという厳しい処分が言い渡されます。 奥平松平家の替わりに、前橋松平家の松平直矩が15万石で入封します。享保5年(1720年)に領民に対し、かなり強引な増税を家臣最大派閥の土岐派が推し進め、その増税に怒った領民は大規模な農民一揆を引き起こします。直矩の孫の3代藩主松平義知は寛保元年(1741年)播磨国姫路藩へ転封します。 前橋松平家の替わりに越後国高田藩より久松松平の松平定賢(さだよし)が11万石で入封します。久松松平家は徳川家康公の異父弟の久松定勝の三男の久松定綱から来ている名門で、2代定邦の後は御三卿(田安家、清水家、一橋家)の田安家から、田安徳川家初代の宗武公の七男の定信が養子に迎えられます。定信は徳川家第7代将軍徳川吉宗公の孫で、徳川第11代将軍の候補者の一人でした。結局、一橋家から徳川家第11代将軍になった徳川家斉公の最側近として幕府老中首座として「寛政の改革」を行います。 定信の後は、4代定永は文政6年(1823年)久松家の旧領の伊勢国桑名藩へ転封します。 久松松平家の替わりに、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、千葉県の一部、神奈川県の一部)忍藩より、阿部正権(まさのり)が10万石で入封します。以降阿部家が8代44年に渡り在封になります。幕末、白河藩主となった正外(まさとう)は幕府老中になります。尊王攘夷派の反対を押し切り、兵庫港(現在の兵庫県神戸市)を開港をするも、これが仇となり幕府老中職を罷免さら、さらに6万石を減封され、8代正静(まさきよ)が陸奥国棚倉藩へ4万石で慶応2年(1886年)移封します。 以降は白河藩は二本松藩の預かり地となり、戊辰戦争の時は激戦地となり城の大半を焼失し、慶応4年(1868年)に正静は白河藩へ帰ってくるも、再び明治元年に棚倉へ転封し、白河は廃藩となり天皇御料地となり、明治2年(1869年)に白河県になり、明治4年(1871年)に廃藩置県となり、二本松県2なり、その後福島県になります。 流石は、要衝の地だけあって白河城本丸は高石垣に完全ガードで美しかったです。御三階櫓も珍しい形をしていますので、様々な角度から楽しんでください。因みに御三階櫓は料金無料です。 アクセス JR東北本線、白河駅から徒歩10分。白河駅横のアンダーパスを潜り抜け直ぐ。 JR東北新幹線、新白河駅から徒歩40分、路線バスで10分です。
NightWalker wayoNightWalker wayo
JR東北本線 白河駅から徒歩5分、阿武隈川と谷津田川に挟まれた小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城、日本100名城の1つ『白河小峰城』 通称、白河城。 ⁡ 東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城と共に「東北三名城」の1つ。 ⁡ 縄張りは梯郭式で、阿武隈川を背にした北端に本丸が位置し、本丸の南に二の丸、三の丸と広がっている。 戊辰戦争で石垣以外全て焼失したが、1991年に本丸御三階櫓が木造により復元され、周辺は城山公園として整備された。 公園内には結城氏や阿部氏に関する資料を展示した「白河集古苑」がある ⁡ 三重櫓入口横には、大改修の際に人柱にされた「おとめ」を弔って桜が植えられている。 ⁡ ※ 寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まったが、最初に来たのは作事奉行和知平左衛門の娘「おとめ」だった。 父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは捕らえられ、人柱にされてしまった。 その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになった。 ⁡ ●名称:白河小峰城 ●住所: 福島県白河市郭内 ●別名:小峰城、白河城 ●城郭構造: 梯郭式平山城 ●天守構造:三重櫓(複合式層塔型3重3階 ) ●築城主: 結城親朝 ●築城年:1340年 ●主な改修者: 丹羽長重 ●主な城主: 白河結城氏、蒲生氏、丹羽氏、松平氏、阿部氏他 ●廃城年:1871年 ●由来: ・1340年、結城親朝が小峰ヶ岡に『小峰城』築城。 ・1590年、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易される。 ・以降は会津領となり、蒲生氏、上杉氏、蒲生氏が支配。 ・1627年、丹羽長重が10万石で棚倉城から移封。 ・1629年、幕命により城郭の大改築開始。 ・1632年、城郭完成。 ・以降は、丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があった。 ・1867年、白河藩は幕領に。 ・1868年5月1日、戊辰戦争 白河口の戦いにて、大半を焼失し落城。 ・1873年1月14日の廃城令では存城処分に。 城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみで、二の丸広場は白河町の公園広場として用いられた。 ・1952年、「白河市営城山球場」として野球場が整備され高さ10m・幅50mほどの石垣がバックスクリーンとして用いられた。 ・1956年にはセリーグ公式戦が1試合、その他2軍戦4試合開催。野球の他にも馬の競りや競輪も開催。 ・1987年、史跡公園としての整備方針に伴い球場施設を撤去。 ・1991年、本丸跡に三重櫓復元。 ・1994年、前御門が復元。 ・2006年4月6日、日本100名城に選定。 ●遺構:石垣、土塁、堀
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白河結城氏等史跡 日本100名城。 白河城ともいう。 2016年10月30日来訪。 白河小峰城は、白河結城氏の城。 白河結城氏は、下総の結城氏から派生した氏族で、平安時代末期から鎌倉時代初期の有力御家人である小山朝光を祖としており、1289年頃、朝光が得た白河荘に孫の結城祐広が移り住み、白川城を拠点として、白河結城氏となった。 祐広の子、結城宗広は、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を掲げた事で起きた元弘の乱に際して、幕府の討伐軍として畿内に派遣されていたところ、後醍醐天皇の綸旨を受けて寝返り、新田義貞と共に鎌倉幕府を滅ぼした人物で、後醍醐天皇から信任を受け、北畠親房、顕家父子の奥州への下向に諸郡奉行として従い、奥州地方の統治を任され、1336年に足利尊氏が京都に攻め入った際には、北畠顕家と共に奥州を出発し、秀吉の中国大返しを凌ぐ1日平均40キロ弱の進軍速度で進軍し、途中鎌倉を落とし、足利尊氏を破り九州に追い落とした。 その後、尊氏が九州で再起して東上して来ると、再度顕家と共に奥州を起つが、足利勢に敗れ、東北で再起を試みるも、海上で遭難して果たせず、伊勢で亡くなった。 宗広の次男、結城親光も、足利尊氏に従い、六波羅探題攻めに参加、建武の親政では恩賞方、雑訴決断所、窪所の役人に任じられた。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、京都に入洛すると、親光は偽降して尊氏の暗殺を試みるが、偽降が露見し、惨殺された。親光は、楠正成、千種忠顕、名和長年と共に、後醍醐天皇に重用された家臣として「三木一草」と呼ばれた。 宗広の死後、白河結城氏は、宗広の嫡男、結城親朝の子、顕朝が継いだ。その為、1340年、親朝は小峰ヶ岡に築城して小峰城を築城し、小峰氏を称した。 親朝自身も、奥州府の式評定衆として、陸奥守である北畠親房、顕家父子を補佐し、周辺の北朝勢力と積極的に交戦し、南朝方として伊達氏を凌ぐ勢力を築き上げた。しかし、関東の常陸国に下向して同地で勢力を確保しようとしていた北畠親房の度重なる救援要請や、親房を追い落として近衛経忠を関東の南朝の盟主に担ぎ上げようとする藤一揆の動きに加え、北朝に通じた石川氏により自領を脅かされる危機に面した結果、小峰親朝は北朝に帰順、白河結城氏を継いだ子の顕朝もそれに倣い北朝に帰順した。 その後白河結城氏については、永享の乱で活躍し、宇都宮等綱の保護、分裂した那須氏の仲介、内乱になった蘆名氏への救援により、白河結城氏の影響力を増大させた6代当主直朝、周辺諸国との同盟により石川氏を取り込み、佐竹氏と争った7代当主政朝の代で最盛期を迎えるが、その後の内紛を契機に佐竹氏や那須氏等の周辺勢力からの侵攻を受け、弱体化する。 なお白河結城氏は、この斜陽の時期である永正年間(1504~1520年)の間に、本拠を小峰城に移している。 白河結城氏は、蘆名氏と婚姻関係を結び、佐竹氏や那須氏等と対抗したが、次第に佐竹氏に領土を削られ、佐竹義重の次男義広を養子に迎え佐竹氏に臣従、その義広が蘆名氏に養子入りして家督を継いだ事で白河結城氏当主に返り咲いた義親は、その後南奥州の覇権争いで伊達氏に押される佐竹氏を見限り、伊達氏の配下に下った。 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐において義親は、伊達政宗に秀吉への貢物を託し、小田原に軍を派遣しなかったところ、改易され所領を失い、大名としての白河結城氏はここで滅んでしまう。 その後の小峰城は、会津に入封した蒲生氏、上杉氏の領地の一部となるが、関ケ原の戦いが終わり、丹羽長重が初代白河藩主として赴任すると、長重は4年の歳月をかけて小峰城の大改修を行い、本丸、二の丸を総石構えとして、三の丸の一部にも石垣を施し、現在の小峰城を形作りました。東北地方では、このような総石構えの城は珍しく、盛岡城、若松城と並び、東北三名城にも数えられている。 その後は、奥州の玄関口を守備する重要な場所である事から、親藩や譜代大名が入れ替わり治める事となる。 中でも、1783年に白河藩主に就任した久松松平氏の松平定信は、天明の大飢饉で疲弊した自領に対し、米やその他食料等の確保、公共事業による失業者対策等、必要な施策を実行した事により、幕府からその治世を評価されて老中首座に就任、有名な寛政の改革を実行した。 将軍徳川家斉との対立により、老中首座の役目を終えて自藩の政事に戻った定信は、殖産興業や文化事業に力を入れ、白河の発展に寄与した。特に面白いのが、平安時代に廃れ、場所が不明となっていた白河の関の比定をしたり、武士も庶民も共に楽しむという「土民共楽」の理念の下、作庭された日本最古の公園である南湖公園でしょうか。 こうした定信公の功績が認められた為か、1823年、子の定永の代に、久松松平氏は伊勢桑名藩に返り咲くに至った。 久松松平氏の後に、武蔵国忍藩から白河藩に入封した阿部氏は、幕末まで治めることとなるが、1866年に棚倉藩に転封となり、二本松藩(丹羽氏)預かり地となった白河藩領は、戊辰戦争の白河口の戦いで焼失、落城した。 この城に赴いたのは、3ヶ月程仕事で東京に派遣されている時で、ストレス発散の為に思い付きで白河の関に行ってみようという気になり、初めて東北の地を踏むという事で、わくわくしながら新幹線で向かいました。白河の関に寄ったその帰りに、小峰城が駅から近かったのでちょっと寄っていってみようかと思い、立ち寄りましたが、とにかく石垣が立派でとても美しく、また復元された木造天守(御三階櫓)が青空に映えて、とても感動しました。 是非、白河結城氏や松平定信公の歴史を偲びながら小峰城を訪ねてみてはいかがでしょうか。
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白河小峰城 別名白河城、小峰城 城の形態 梯郭式平山城 天守閣 複合式層塔型3重3階三重櫓「=通称 御三階櫓」 ・白河藩史 戦国期〜安土桃山時代は会津領の一部で、伊達家、上杉家、蒲生家、それぞれの超有力大名達の支配下にあり、白河藩として独立したのは江戸時代に入ってからになります。 寛永4年(1627年)陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)棚倉藩より丹羽長重が10万余石で入封し白河藩が成立します。長重は直ぐに白河城築城と城下町整備に着手します。2代当主丹羽光長になり、光長は寛永20年(1643年)に白河からほど近い二本松に転封します。 ここから、白河藩は東北の有力外様大名である弘前の津軽氏、盛岡の南部氏、秋田の佐竹氏、仙台の伊達氏、二本松の丹羽氏を迎え撃つための要衝の役割をするために徳川家の有力譜代大名が数多く入封する地となります。 丹羽氏の替わりに上野国(こうずけ、現在の群馬県)館林藩より榊原忠次が14万石で入封します。榊原忠次は徳川家康公の姪子にあたることから一代限りの松平姓を許された人物で徳川四天王と呼ばれる。井伊家、本多家、酒井家と並ぶ徳川名門家でした。慶安2年(1649年)播磨国(現在の兵庫県)姫路藩へ転封します。 榊原家の替わりに越後国(現在の新潟県)村上藩より本多忠義が12万石で入封します。新田開発や再検知を行い実高37000石を加えたが、年貢増により領民の反発と減免を求める訴えを江戸幕府に願い出たため、2代当主の本多忠平の時の天和元年(1681年)の時に下野国(しもつけ、現在の栃木県)宇都宮藩へ転封します。 本多家の替わりに入封したのが奥平松平家の松平忠弘が15万石で入封しますが、忠弘は病気を患い療養しているさなか、家老の奥平金弥と同じ家老の黒屋数馬が対立し、お家騒動を起こしてしまい、家臣の監督不行を理由に減封の処分をされ、出羽国(現在の秋田県、山形県)山形藩へ転封します。そして忠弘の子孫にも備後国(現在の広島県の一部、岡山県の一部)福山藩、伊勢国(現在の三重県)桑名藩移封を次々に命じられるという厳しい処分が言い渡されます。 奥平松平家の替わりに、前橋松平家の松平直矩が15万石で入封します。享保5年(1720年)に領民に対し、かなり強引な増税を家臣最大派閥の土岐派が推し進め、その増税に怒った領民は大規模な農民一揆を引き起こします。直矩の孫の3代藩主松平義知は寛保元年(1741年)播磨国姫路藩へ転封します。 前橋松平家の替わりに越後国高田藩より久松松平の松平定賢(さだよし)が11万石で入封します。久松松平家は徳川家康公の異父弟の久松定勝の三男の久松定綱から来ている名門で、2代定邦の後は御三卿(田安家、清水家、一橋家)の田安家から、田安徳川家初代の宗武公の七男の定信が養子に迎えられます。定信は徳川家第7代将軍徳川吉宗公の孫で、徳川第11代将軍の候補者の一人でした。結局、一橋家から徳川家第11代将軍になった徳川家斉公の最側近として幕府老中首座として「寛政の改革」を行います。 定信の後は、4代定永は文政6年(1823年)久松家の旧領の伊勢国桑名藩へ転封します。 久松松平家の替わりに、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、千葉県の一部、神奈川県の一部)忍藩より、阿部正権(まさのり)が10万石で入封します。以降阿部家が8代44年に渡り在封になります。幕末、白河藩主となった正外(まさとう)は幕府老中になります。尊王攘夷派の反対を押し切り、兵庫港(現在の兵庫県神戸市)を開港をするも、これが仇となり幕府老中職を罷免さら、さらに6万石を減封され、8代正静(まさきよ)が陸奥国棚倉藩へ4万石で慶応2年(1886年)移封します。 以降は白河藩は二本松藩の預かり地となり、戊辰戦争の時は激戦地となり城の大半を焼失し、慶応4年(1868年)に正静は白河藩へ帰ってくるも、再び明治元年に棚倉へ転封し、白河は廃藩となり天皇御料地となり、明治2年(1869年)に白河県になり、明治4年(1871年)に廃藩置県となり、二本松県2なり、その後福島県になります。 流石は、要衝の地だけあって白河城本丸は高石垣に完全ガードで美しかったです。御三階櫓も珍しい形をしていますので、様々な角度から楽しんでください。因みに御三階櫓は料金無料です。 アクセス JR東北本線、白河駅から徒歩10分。白河駅横のアンダーパスを潜り抜け直ぐ。 JR東北新幹線、新白河駅から徒歩40分、路線バスで10分です。
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JR東北本線 白河駅から徒歩5分、阿武隈川と谷津田川に挟まれた小峰ヶ岡という丘陵にあった平山城、日本100名城の1つ『白河小峰城』 通称、白河城。 ⁡ 東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城と共に「東北三名城」の1つ。 ⁡ 縄張りは梯郭式で、阿武隈川を背にした北端に本丸が位置し、本丸の南に二の丸、三の丸と広がっている。 戊辰戦争で石垣以外全て焼失したが、1991年に本丸御三階櫓が木造により復元され、周辺は城山公園として整備された。 公園内には結城氏や阿部氏に関する資料を展示した「白河集古苑」がある ⁡ 三重櫓入口横には、大改修の際に人柱にされた「おとめ」を弔って桜が植えられている。 ⁡ ※ 寛永年間に城の大改修を行った際、本丸の石垣が何度も崩壊したため、人柱を立てることになり、人柱にするのはその日、最初に城に来た者ということに決まったが、最初に来たのは作事奉行和知平左衛門の娘「おとめ」だった。 父は必死に「来るな」と手で合図をしたが、逆に「来い」という合図と勘違いしたおとめは捕らえられ、人柱にされてしまった。 その後、石垣は無事完成し、おとめが埋められた場所には桜の木が植えられ「おとめ桜」と呼ばれるようになった。 ⁡ ●名称:白河小峰城 ●住所: 福島県白河市郭内 ●別名:小峰城、白河城 ●城郭構造: 梯郭式平山城 ●天守構造:三重櫓(複合式層塔型3重3階 ) ●築城主: 結城親朝 ●築城年:1340年 ●主な改修者: 丹羽長重 ●主な城主: 白河結城氏、蒲生氏、丹羽氏、松平氏、阿部氏他 ●廃城年:1871年 ●由来: ・1340年、結城親朝が小峰ヶ岡に『小峰城』築城。 ・1590年、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易される。 ・以降は会津領となり、蒲生氏、上杉氏、蒲生氏が支配。 ・1627年、丹羽長重が10万石で棚倉城から移封。 ・1629年、幕命により城郭の大改築開始。 ・1632年、城郭完成。 ・以降は、丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と7家21代の城主の交代があった。 ・1867年、白河藩は幕領に。 ・1868年5月1日、戊辰戦争 白河口の戦いにて、大半を焼失し落城。 ・1873年1月14日の廃城令では存城処分に。 城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみで、二の丸広場は白河町の公園広場として用いられた。 ・1952年、「白河市営城山球場」として野球場が整備され高さ10m・幅50mほどの石垣がバックスクリーンとして用いられた。 ・1956年にはセリーグ公式戦が1試合、その他2軍戦4試合開催。野球の他にも馬の競りや競輪も開催。 ・1987年、史跡公園としての整備方針に伴い球場施設を撤去。 ・1991年、本丸跡に三重櫓復元。 ・1994年、前御門が復元。 ・2006年4月6日、日本100名城に選定。 ●遺構:石垣、土塁、堀
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Reviews of Shirakawa Komine Castle Ruins

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白河結城氏等史跡 日本100名城。 白河城ともいう。 2016年10月30日来訪。

白河小峰城は、白河結城氏の城。 白河結城氏は、下総の結城氏から派生した氏族で、平安時代末期から鎌倉時代初期の有力御家人である小山朝光を祖としており、1289年頃、朝光が得た白河荘に孫の結城祐広が移り住み、白川城を拠点として、白河結城氏となった。

祐広の子、結城宗広は、後醍醐天皇が鎌倉幕府の倒幕を掲げた事で起きた元弘の乱に際して、幕府の討伐軍として畿内に派遣されていたところ、後醍醐天皇の綸旨を受けて寝返り、新田義貞と共に鎌倉幕府を滅ぼした人物で、後醍醐天皇から信任を受け、北畠親房、顕家父子の奥州への下向に諸郡奉行として従い、奥州地方の統治を任され、1336年に足利尊氏が京都に攻め入った際には、北畠顕家と共に奥州を出発し、秀吉の中国大返しを凌ぐ1日平均40キロ弱の進軍速度で進軍し、途中鎌倉を落とし、足利尊氏を破り九州に追い落とした。 その後、尊氏が九州で再起して東上して来ると、再度顕家と共に奥州を起つが、足利勢に敗れ、東北で再起を試みるも、海上で遭難して果たせず、伊勢で亡くなった。

宗広の次男、結城親光も、足利尊氏に従い、六波羅探題攻めに参加、建武の親政では恩賞方、雑訴決断所、窪所の役人に任じられた。足利尊氏が後醍醐天皇から離反し、京都に入洛すると、親光は偽降して尊氏の暗殺を試みるが、偽降が露見し、惨殺された。親光は、楠正成、千種忠顕、名和長年と共に、後醍醐天皇に重用された家臣として「三木一草」と呼ばれた。

宗広の死後、白河結城氏は、宗広の嫡男、結城親朝の子、顕朝が継いだ。その為、1340年、親朝は小峰ヶ岡に築城して小峰城を築城し、小峰氏を称した。 親朝自身も、奥州府の式評定衆として、陸奥守である北畠親房、顕家父子を補佐し、周辺の北朝勢力と積極的に交戦し、南朝方として伊達氏を凌ぐ勢力を築き上げた。しかし、関東の常陸国に下向して同地で勢力を確保しようとしていた北畠親房の度重なる救援要請や、親房を追い落として近衛経忠を関東の南朝の盟主に担ぎ上げようとする藤一揆の動きに加え、北朝に通じた石川氏により自領を脅かされる危機に面した結果、小峰親朝は北朝に帰順、白河結城氏を継いだ子の顕朝もそれに倣い北朝に帰順した。

その後白河結城氏については、永享の乱で活躍し、宇都宮等綱の保護、分裂した那須氏の仲介、内乱になった蘆名氏への救援により、白河結城氏の影響力を増大させた6代当主直朝、周辺諸国との同盟により石川氏を取り込み、佐竹氏と争った7代当主政朝の代で最盛期を迎えるが、その後の内紛を契機に佐竹氏や那須氏等の周辺勢力からの侵攻を受け、弱体化する。 なお白河結城氏は、この斜陽の時期である永正年間(1504~1520年)の間に、本拠を小峰城に移している。

白河結城氏は、蘆名氏と婚姻関係を結び、佐竹氏や那須氏等と対抗したが、次第に佐竹氏に領土を削られ、佐竹義重の次男義広を養子に迎え佐竹氏に臣従、その義広が蘆名氏に養子入りして家督を継いだ事で白河結城氏当主に返り咲いた義親は、その後南奥州の覇権争いで伊達氏に押される佐竹氏を見限り、伊達氏の配下に下った。 しかし、豊臣秀吉の小田原征伐において義親は、伊達政宗に秀吉への貢物を託し、小田原に軍を派遣しなかったところ、改易され所領を失い、大名としての白河結城氏はここで滅んでしまう。

その後の小峰城は、会津に入封した蒲生氏、上杉氏の領地の一部となるが、関ケ原の戦いが終わり、丹羽長重が初代白河藩主として赴任すると、長重は4年の歳月をかけて小峰城の大改修を行い、本丸、二の丸を総石構えとして、三の丸の一部にも石垣を施し、現在の小峰城を形作りました。東北地方では、このような総石構えの城は珍しく、盛岡城、若松城と並び、東北三名城にも数えられている。

その後は、奥州の玄関口を守備する重要な場所である事から、親藩や譜代大名が入れ替わり治める事となる。 中でも、1783年に白河藩主に就任した久松松平氏の松平定信は、天明の大飢饉で疲弊した自領に対し、米やその他食料等の確保、公共事業による失業者対策等、必要な施策を実行した事により、幕府からその治世を評価されて老中首座に就任、有名な寛政の改革を実行した。 将軍徳川家斉との対立により、老中首座の役目を終えて自藩の政事に戻った定信は、殖産興業や文化事業に力を入れ、白河の発展に寄与した。特に面白いのが、平安時代に廃れ、場所が不明となっていた白河の関の比定をしたり、武士も庶民も共に楽しむという「土民共楽」の理念の下、作庭された日本最古の公園である南湖公園でしょうか。 こうした定信公の功績が認められた為か、1823年、子の定永の代に、久松松平氏は伊勢桑名藩に返り咲くに至った。

久松松平氏の後に、武蔵国忍藩から白河藩に入封した阿部氏は、幕末まで治めることとなるが、1866年に棚倉藩に転封となり、二本松藩(丹羽氏)預かり地となった白河藩領は、戊辰戦争の白河口の戦いで焼失、落城した。

この城に赴いたのは、3ヶ月程仕事で東京に派遣されている時で、ストレス発散の為に思い付きで白河の関に行ってみようという気になり、初めて東北の地を踏むという事で、わくわくしながら新幹線で向かいました。白河の関に寄ったその帰りに、小峰城が駅から近かったのでちょっと寄っていってみようかと思い、立ち寄りましたが、とにかく石垣が立派でとても美しく、また復元された木造天守(御三階櫓)が青空に映えて、とても感動しました。 是非、白河結城氏や松平定信公の歴史を偲びながら小峰城を訪ねて...

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白河小峰城 別名白河城、小峰城 城の形態 梯郭式平山城 天守閣 複合式層塔型3重3階三重櫓「=通称 御三階櫓」

・白河藩史 戦国期〜安土桃山時代は会津領の一部で、伊達家、上杉家、蒲生家、それぞれの超有力大名達の支配下にあり、白河藩として独立したのは江戸時代に入ってからになります。

寛永4年(1627年)陸奥国(現在の青森県、岩手県、宮城県、福島県)棚倉藩より丹羽長重が10万余石で入封し白河藩が成立します。長重は直ぐに白河城築城と城下町整備に着手します。2代当主丹羽光長になり、光長は寛永20年(1643年)に白河からほど近い二本松に転封します。

ここから、白河藩は東北の有力外様大名である弘前の津軽氏、盛岡の南部氏、秋田の佐竹氏、仙台の伊達氏、二本松の丹羽氏を迎え撃つための要衝の役割をするために徳川家の有力譜代大名が数多く入封する地となります。

丹羽氏の替わりに上野国(こうずけ、現在の群馬県)館林藩より榊原忠次が14万石で入封します。榊原忠次は徳川家康公の姪子にあたることから一代限りの松平姓を許された人物で徳川四天王と呼ばれる。井伊家、本多家、酒井家と並ぶ徳川名門家でした。慶安2年(1649年)播磨国(現在の兵庫県)姫路藩へ転封します。

榊原家の替わりに越後国(現在の新潟県)村上藩より本多忠義が12万石で入封します。新田開発や再検知を行い実高37000石を加えたが、年貢増により領民の反発と減免を求める訴えを江戸幕府に願い出たため、2代当主の本多忠平の時の天和元年(1681年)の時に下野国(しもつけ、現在の栃木県)宇都宮藩へ転封します。

本多家の替わりに入封したのが奥平松平家の松平忠弘が15万石で入封しますが、忠弘は病気を患い療養しているさなか、家老の奥平金弥と同じ家老の黒屋数馬が対立し、お家騒動を起こしてしまい、家臣の監督不行を理由に減封の処分をされ、出羽国(現在の秋田県、山形県)山形藩へ転封します。そして忠弘の子孫にも備後国(現在の広島県の一部、岡山県の一部)福山藩、伊勢国(現在の三重県)桑名藩移封を次々に命じられるという厳しい処分が言い渡されます。

奥平松平家の替わりに、前橋松平家の松平直矩が15万石で入封します。享保5年(1720年)に領民に対し、かなり強引な増税を家臣最大派閥の土岐派が推し進め、その増税に怒った領民は大規模な農民一揆を引き起こします。直矩の孫の3代藩主松平義知は寛保元年(1741年)播磨国姫路藩へ転封します。

前橋松平家の替わりに越後国高田藩より久松松平の松平定賢(さだよし)が11万石で入封します。久松松平家は徳川家康公の異父弟の久松定勝の三男の久松定綱から来ている名門で、2代定邦の後は御三卿(田安家、清水家、一橋家)の田安家から、田安徳川家初代の宗武公の七男の定信が養子に迎えられます。定信は徳川家第7代将軍徳川吉宗公の孫で、徳川第11代将軍の候補者の一人でした。結局、一橋家から徳川家第11代将軍になった徳川家斉公の最側近として幕府老中首座として「寛政の改革」を行います。 定信の後は、4代定永は文政6年(1823年)久松家の旧領の伊勢国桑名藩へ転封します。

久松松平家の替わりに、武蔵国(現在の東京都、埼玉県、千葉県の一部、神奈川県の一部)忍藩より、阿部正権(まさのり)が10万石で入封します。以降阿部家が8代44年に渡り在封になります。幕末、白河藩主となった正外(まさとう)は幕府老中になります。尊王攘夷派の反対を押し切り、兵庫港(現在の兵庫県神戸市)を開港をするも、これが仇となり幕府老中職を罷免さら、さらに6万石を減封され、8代正静(まさきよ)が陸奥国棚倉藩へ4万石で慶応2年(1886年)移封します。

以降は白河藩は二本松藩の預かり地となり、戊辰戦争の時は激戦地となり城の大半を焼失し、慶応4年(1868年)に正静は白河藩へ帰ってくるも、再び明治元年に棚倉へ転封し、白河は廃藩となり天皇御料地となり、明治2年(1869年)に白河県になり、明治4年(1871年)に廃藩置県となり、二本松県2なり、その後福島県になります。

流石は、要衝の地だけあって白河城本丸は高石垣に完全ガードで美しかったです。御三階櫓も珍しい形をしていますので、様々な角度から楽しんでください。因みに御三階櫓は料金無料です。

アクセス JR東北本線、白河駅から徒歩10分。白河駅横のアンダーパスを潜り抜け直ぐ。

JR東北新幹線、新白河駅から徒歩40分...

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白河小峰城的櫻花表現算是一般,還不到特地前往的程度。 2019.04.15(一)當天會造訪,是有幾分多跑一個景點的概念,剛好那天是強風警報,這氣氛,很適合到おとめ桜(人柱的故事)憑弔。

白河小峰城是日本100名城,算是歷史感較重的古城。城內較為出名的是代天守使用的三重櫓,屬於日本木造復元的開始。 掛川城天守於1994年以木造復元,是日本第一座以木造復元的天守。 白河小峰城的三重櫓於1991年以木造復元,比掛川城的天守早三年,開日本木造復原古城之先河。 白河小峰城幕末時由二本松城的丹羽氏託管,明治政府與幕府軍在此地發生激烈的白河口之役,新政府軍大勝,白河小峰城內建築幾乎遭到燒毀, 重建後在311東日本大地震又遭受打擊。 2019年到訪,還有部分區域尚在重建當中。(20190830)

櫻花、紅葉都還好。櫻花+三重櫓的畫面還不錯,算是小景。 是可以順路去(其實要去也有點不方便@@,車班少),但不必特地去的櫻花景點。 白河小峰城三重橹旁的櫻花有一個おとめ桜(人柱)的故事...... 櫻花時節若是搭配 城下町白河しだれ桜(妙関寺の乙姫桜、関川寺の結城桜、妙徳寺の源清桜) 、南湖公園(南湖神社、翠楽苑),以及白河拉麵,倒是可以考慮一遊(整天)。

(一)從仙台駅出發

從仙台駅出發的話,通常在新幹線新白河駅或郡山駅換乘至JR白河駅。

1‧新幹線仙台駅→新幹線新白河駅→JR白河駅 約含候車約59分,車資6070円(指定席)

1.早上去,就: 08:20 新幹線仙台 → 09:08 新幹線新白河 ※東北新幹線 やまびこ40号 09:19 JR新白河 → 09:22 JR白河

09:00 新幹線仙台 → 09:48 新幹線新白河 ※東北新幹線 やまびこ210号 09:59 JR新白河 → 10:02 JR白河

2.下午回,就: 13:27 JR白河 → 13:31 JR新白河 ※東北本線(新白河-福島) 13:56 新幹線新白河 → 14:25 新幹線仙台 ※東北新幹線 やまびこ209号

17:02 JR白河 → 17:06 JR新白河 ※東北本線(新白河-福島) 17:36 新幹線新白河 → 18:25 新幹線仙台 ※東北新幹線 やまびこ213号 ※6,270円、所要時間:1時間23分(乗車時間 53分)

新幹線新白河駅(通常2小時1班次)、JR白河駅(通常1小時1班次)的停靠車班較少,因此要精心計算從JR新白河駅與JR白河駅的換乘班次時間。 新白河駅與白河駅相距一站,車程約3分鐘,但是因為班次都少,換乘必須特別費心。

仙台駅時刻表、仙台駅發車的東北新幹線 福島・郡山・宇都宮・大宮・東京方面 (上り) 平日時刻表、土休日時刻表 (仙台→新白河) 新幹線仙台駅→新白河駅的班次:06:06、06:24、06:50、07:34、08:20、09:00、12:00、14:00、16:00、18:11、19:20(後略)

新白河駅時刻表、新白河駅發車的東北新幹線 郡山・福島・仙台・盛岡・新青森方面 (下り) 平日時刻表、土休日時刻表 (新白河→仙台) 新幹線新白河駅→仙台駅的班次:06:42、07:44、08:08、09:11、11:36、13:36、15:36、17:36、18:39、19:12、20:02、20:22、20:51、22:16、22:55 新白河駅時刻表、新白河駅發車的東北本線 郡山・福島方面 (下り) 平日時刻表、土休日時刻表 (新白河→白河) JR新白河駅→JR白河駅的班次:09:19、09:59、10:53、11:58、12:57、13:57、14:41、16:56、20:06(後略)

白河駅時刻表、JR白河駅發車的東北本線 黒磯・宇都宮方面...

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