駐車場もあり、近くにはスーパーなどもあり、クルマでも立ち寄りやすい場所です。 不条理だけど、でも忘れてはならない、勇気をもらえる歴史の一幕に出会えます。 機会あれば、ぜひ、お立ち寄りください。
"つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め" 乗慶寺の境内にある「顕彰碑」より
1944年、太平洋戦争の中でももっとも無謀な作戦の1つ「インパール作戦」のまさに「狂気」のなかで、指揮官として正常な思考とバランス感覚、判断力を保ち、「その時」「その場所で」「自らにしかできないこと」を適切に行動に移した指揮官(当時、陸軍中将。第31師団長)に対し、同師団の有志の方々が捧げた追憶の碑。
この「抗命撤退」後、上官より師団長を更迭され、結局、不起訴処分になったにも関わらず、陸軍/大本営/政府から無視、軟禁され、終戦後も名誉回復されることなく65年の生涯を終えた 人間、佐藤幸徳(こうとく)。
※インパール作戦の「抗命撤退」については、ある程度有名であり、碑文や説明文もあるので、ここでは割愛。
彼は「抗命撤退」に先立つこと6年前にも、歴史の一幕に登場している。 45歳だった太平洋戦争前の1938年、満州東南端の沿海州(現北朝鮮とロシア国境)で、日ソ双方1200余名の戦死者を出したソ連による国境侵害「張鼓峰事件」に、連隊長として派遣された。 夏とは言え、そこは北の大地。橋などない国境に流れるがままの大河「豆満江」(とうまんこう)の対岸(北岸:ソ連側)にあり、孤立無援に突出した標高150mほどの小さな丘陵地帯「張鼓峰」(ちょうこほう)。戦略的には、朝鮮北東部の港湾都市「羅津」と朝鮮主要部、そして満州を結ぶ南満州鉄道を見渡せる高地であった。豆満江下流の海岸線に広がる平坦な地域を支配していたソ連軍の現地国境警備隊が、自軍から満洲国への亡命者を出してしまった汚点をモスクワに対して払拭するため、国境不確定地帯のこの高地の奪取を図ったものと考えられている。 ソ連の国境警備隊は、まず張鼓峰の北西部にあるハサン湖西側の丘陵に小規模の部隊を進軍させ、砲床や観測壕、通信施設を含む築城を開始。これを監視していた日本兵を殺害。さらに7月末には張鼓峰に軍を進め、結果的に2万を超える兵力に増強して、この高知を確保した。 この動きを事前に無線傍受で察知していた関東軍は、所轄の朝鮮軍(当時は日本軍)に積極的な対応を促したが、朝鮮軍は日本政府にソ連との外交交渉を打診するのみで動かない。日本政府は7/15にモスクワ駐在大使からソ連現地軍の撤退を要求したが、ソ連政府は張鼓峰はソ連領と主張して拒否、外交交渉は物別れに終わった。 ソ連軍の意図を事前の無線傍受で理解していた関東軍は、7000兵の軍の連隊長として佐藤(大佐)を派遣。まもなく双方の偵察隊が接触、瞬く間に戦闘状態に発展。佐藤の部隊は、夜襲により張鼓峰一帯のソ連軍陣地を急襲して奪取に成功。ここから2週間に及ぶ死闘が始まった。
戦車や重砲で機械化し、8/1からは航空隊の爆撃機やウラジオストクに停泊する太平洋艦隊艦艇まで動員したソ連軍は、一方的かつ執拗な攻撃を繰り返した。佐藤の連隊は戦車による砲撃と爆撃機による空爆に晒されながら、劣勢な装備と1/3の兵力でこれを撃退。しかし実情はこの小さな丘で身動きも取れぬまま、多大の犠牲を出し、耐え忍ぶしかなかった。
日中戦争で忙しく、シベリア出兵以後、ソ連軍を馬鹿にしていた陸軍や反応の鈍い日本政府が、ソ連軍の兵力とその軍事行動の状況分析に手間取っている間、佐藤は守備隊長として、日ソ両政府が停戦合意するまでの14日間、7000名の兵卒らと共に国境の小さな丘、国境線の陣地を守り抜いた。どのような損害を受けようとも、一歩も退かないことが佐藤に与えられた「任務」であったのだろう。
わずか2週間の戦闘で、部隊損耗が半数にも達する大損害を受けたが、佐藤の死後数十年後、ソ連崩壊による1993年の文書公開で、ソ連側の損害は遥かに大きかったことが判明している。その上、ソ連側の指揮官ヴァシリー・ブリュヘルは、状況把握と部隊統率のまずさ、小さな丘ひとつ奪取できなかったことをスターリンに咎められ、粛清されたことも後年わかっている。
事実に基づいた功績から、本来、人は評価されるべきである。
今や現代日本が、そこに日本人が足跡を残したことさえ忘却の彼方に忘れ去り、誰も振り返ることすらまずない遠い歴史の、暗く淀んだ片隅で 「なぜ俺たちは死んだんだ?」 「何のためにあの丘を死守したのか?」 「人生で、大切なものとは何か?」 などと無数の魂が問いかけてくる。
いつのことか、名前も知らない はるか辺境の忘野で ボロ雑巾のように生命を落とすしかなかった多くの無名の魂を前に、人は何のために生きるかを考えさせてくれる。
時を越えた光を放つ、稀有で、偉大な魂に 心から哀悼...
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