国指定史跡。維新と共に関所は廃止され,関所は破却されたが,「手形石」と「手付石」が残る。国指定史跡の割には,あまり見るところがない印象。
小仏関所の最も古い記録は,永禄四年二月に発令された制札である。発令元は関東管領を継いだ上杉輝虎(後の謙信)であり,発令時期は,彼が小田原北条氏を小田原城に追い詰めた時期と重なる(小田原城の戦い)。制札の内容は「敵味方問わず,小仏関所を押し通ろうとする者は処罰する」というものであった。当時,小仏峠の先には,後北条氏の味方であった甲斐武田氏がおり(甲相駿三国同盟),ここを押し通ろうとする者は,武田へと連絡を試みようとする者又は武田から後北条への救援をしようとする者として,厳しく取り締まる必要があったのだろう。
その後,記録に登場するのは三十年後,天正十七年五月十日のものである。これは後北条氏から高尾山に対して発出した制札であり,その内容は「小仏関所に逆茂木を設置し,警備を強化しなさい」というものである。対外情勢から考えるに,小田原征伐に備えて,甲州街道の防衛を強化せよというニュアンスだろう。 結局,後北条氏は小田原征伐に耐えきれずに滅亡し,その後釜として徳川氏が当地を治めた。その際も防御拠点としての重要性は揺るがず,豊臣氏方の侵攻を想定し,八王子周辺の開発と共に関所の強化が進められたものとされる。
豊臣氏が滅び,その後文治政治が本格化すると,こういった防衛拠点としての性質が薄れ,「入鉄炮出女」にあらわされる出入国審査場としての性質が色濃くなる。
記録によると,甲州方面に逃れようとする窃盗犯等の犯罪者をここで捕まえることが多くなった様である。 一例を紹介するに,寛政六年六月頃,浅川沿いにて男が捕まり,小仏関所に突き出された。男は仙台領無宿の新七と名乗っていたが,これを取り調べてみると,関所破りをしようとしていたことが判明する。 結果,寛政六年十一月十一日,高尾の橋詰にて磔の刑に処された(『小仏御関所御用留抜萃』の写本の要約)。伝承によると,新七は自分を密告した者を非常に恨み,死に間際まで...
Read more2024.2.17梅が咲き始めた頃に訪れました。ここは甲州道中で、最も堅固と言われた関所だったようです。天正元年、小田原攻めを警戒した北条氏照が武蔵国と相模国境の要衝として小仏峠の頂上に築き、情勢に応じて麓に下ろし、北条氏滅亡後は徳川家康によって、現在地に移設され整備されたといわれています。 関所の警備は3から4人体制で専従の関守が置かれ、関所付近の屋敷に居住したとのこと。 残念ながら明治2年(1869年)の太政官布告により全国の関所は廃止され、小仏関も取り壊されてしまいました。現在は建物の前にあった、通行人が手形を置いた手形石と吟味を待っている間に手をついていた手付石が残っています。 甲州街道は遺構が少な...
Read more駒木野公園の隅にある関所跡で下山後にでも訪れて、昔の旅人が通行手形を見せ、これから難所の小仏峠にどんな気持ちで向かったのか想いを馳せてみては?此処にあるサンシュユの花(檀香梅に似ている)が咲くと高尾に春が来たことを感じられます。又、高尾駅寄りの1本目の道を入りJR中央線の橋を渡り道なりに行き中央道をくぐり抜けると地蔵山から富士見台への登山道入口があります。登り始めは悪路ですが、...
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