Musashi Fuchu Kumano Shrine Tumulus
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2022年1月下旬訪問 全国的に非常に希少な上円下方墳! 目の前の道を通る度に気になっていた古墳。 やっと訪問出来ました。 7世紀の飛鳥時代のとても希少なもの。隣接の記念館に設けられた室には新型コロナウイルス対策のため、入室出来ませんが、記念館の展示で古墳の中、発見された経緯などを知ることが出来ます。 コロナ明けに改めて訪問させていただきます。 以下、府中市ホームページより抜粋 武蔵府中熊野神社古墳とは? 武蔵府中熊野神社古墳は、飛鳥時代の7世紀の中頃(今から約1350年前)に築造された古墳であり、四角い墳丘(ふんきゅう)の上に丸い墳丘が重なった形で、上円下方墳と呼ばれています。この形は、古墳時代の終わり頃に造られるようになった、全国的にも非常に希少な形の古墳です。武蔵府中熊野神社古墳は、国内の発掘調査により確認され、石が葺(ふ)かれている上円下方墳の中では最大規模であり、もっとも古いものです。 古墳の形と大きさ 古墳は、三段構造で各段とも盛り土で築かれています。上から見た形は、1段目と2段目が正方形で3段目が円形です。2段目と3段目は全面が河原石(かわらいし)で覆われています。側面を「葺石(ふきいし)」、上面を「貼石(はりいし)」と呼びます。1段目の外周には直方体に面取りされた切石(きりいし)による「縁石(えんせき)」が並べられています。南側の切石は、石室前を占める前庭部の縁石に接続し2段目の側面に接合しています。2段目の側面は小口積みという積み方で、上面は扁平な河原石と丸い小石が平らに敷かれています。2段目の南側を切り込む形で石室の入り口が設けられています。入口は切石で組み立てられています。3段目は葺石が円環状に積まれ、その上は、扁平な河原石で覆われたドーム風となり、最上部は石が平坦に敷かれたと推定されます。 古墳は、中央の支配権力を目に見える形で表したもので、大きさや形に政治的意図が反映されると考えられ、設計法が研究されています。武蔵府中熊野神社古墳の墳丘にも規則的な設計が見いだされます。古墳全体の中心軸は真北よりも西へ7度傾いており、磁北(じほく)に近い方向を示しています。墳丘の1段目の一辺の長さ32mは、上円部の直径16mの2倍です。2段目の正方形の一辺の長さ23mは、上円部がすっぽり収まる正方形の対角線とほぼ同じ長さに造られています。これらは、1尺が約35cmの高麗尺と呼ばれる単位で設計されたものと考えられます。調査時に残存していた古墳の高さが約5mありました。そこで、復元の高さは、高麗尺での18尺に近い約6mとしています。 石室の構造 石室は、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)で、三室構造でした。一番奥の玄室(げんしつ)は、壁面が丸みを帯びた部屋で、奥壁は特に大きな石が使われていました。壁面は切石で組まれ、床面は平たい河原石が敷かれていました。 墳丘の断面をみると、異なる土の層を重ねる版築(はんちく)工法が採用されています。ロームを盛って一端突き堅め、その上に黒土混じりの土を盛って突き堅めるということを繰り返し築いています。また、石室に使われた石の削り屑が混じった層もある事から、石室造りと墳丘造りの作業が並行して進められたと考えられます。また石室の下もロームを主体とした土により版築工法をしており、石室を支える頑丈な基礎となっています。 出土遺物 石室内に、埋葬時の副葬品は、ほとんど残っていませんでした。しかし、ガラス玉・鞘尻金具(さやじりかなぐ)・環金具・釘が残されていました。 この中で特に注目されるのは、大刀(たち)の一部である、鞘尻金具に刻まれた「七曜文(しちようもん)」という文様です。これは和同開珎(わどうかいちん)(708年初鋳)よりも古いといわれる富本銭(ふほんせん)にもみられる文様ですが、さらに7世紀後半のものと考えられます。また、遺体を納めた棺の飾り金具と思われるものも出土しており、被葬者は木製の棺に納められたと思われます。釘類が2箇所にまとまっていたことから、埋葬が二度以上行われた可能性も考えられます。 築造時期 石室の形態や鞘尻金具の特徴やその出土状況などを総合して考えると、この古墳は7世紀中頃には造られていたと考えられます。この頃は、畿内の中央政府によって、統一された日本の国が形づくられようとしていた時代であり、武蔵国に国府が置かれる直前と考えられます。 それまで各地域で造られていた古墳とは異なる形態の上円下方墳は、時代の変化を示すとともに、府中に国府が設置された背景をうかがわせる歴史的に主要な築造物といえます。 熊野神社古墳に類似した石室には、八王子市の北大谷古墳や三鷹市の天文台構内古墳があります。これらの古墳も7世紀代の古墳と考えられています。本古墳には掘り込み地業(ちぎょう)等の少し新しい特徴があります。
期待の若鷹(HAWKS)期待の若鷹(HAWKS)
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最寄り駅 JR国立駅より南口3番バス乗り場より府中行き西府町2丁目下車進行方向に1分 入館料は無料 トイレは古墳展示館内 形状 上円下方墳 築造時期 7世紀中頃~後半 神社の境内にある小山が古墳であるという説自体は以前から存在し、地元では関東大震災の時に墳丘の一部が崩壊するまで石室の中に入れたとの言い伝えがある。穴に入ることができたことから、神社の敷地内にある小山のことを洞穴(ほらあな)と呼んでいたが[1]、最近まで古墳であるかどうかの確証がつかめなかった。 なお、熊野神社は元々は府中市内の別の場所にあったものが、1777年(安永6年)に現在地に移ってきたものと言い伝えられており[2]、古墳と神社は直接的な関係はないものと見られている。との事です。 甲州街道沿いに突然現れる古墳 作られた当時を再現し保存されており 形状は珍しい上円下方墳 神社の本殿の後ろにあります。 柵があり近づけなくなっていますがかなりの近距離で見れます。併設されている資料展示館があり玄室を再現した所もありますが天井がかなりの低く又、段差もある為 展示館の入口でヘルメットと懐中電灯を貸してくれますが、何も言わずに行ける様な雰囲気なので入口で一言声をかけた方が良いと思います。展示館の2階もパネル等で説明がされています。
it's meit's me
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2003年に熊野神社裏の小山に古墳がみつかったというニュースを聞き、現地説明会にいきました。この小山は前から古墳ではないかといわれていましたが、そうでなかったら崩して駐車場にするつもりだったそうです。ところがよく調べてみると切石・吹石・石室・古墳を丈夫にする版築工法などがみつかり、近隣にない大きさ・特徴を持つ古墳だとわかりました。 2009年に当時の形に復元して国史跡に指定されたときき、再訪しました。西府駅からどきどきしながら歩くと甲州街道向うに石積みの古墳が見えてきて大興奮。近づくと吹石に覆われた古墳の大きさ、高さに驚きました。この古墳は7世紀中ごろに作られたと説明がありましたが、1000年以上も経つと石も持ち去られ、古墳であることも伝わらずただの小山になってしまうんだなあと思い、なんだか寂しい気持ちになりました。かつては情報を残す手段がほとんどなかったので致し方がないのですが。 このときは古墳に関する情報は説明板とプレハブ小屋内のちょっとした展示しかありませんでした。のちに古墳展示館ができ、改めて見に行きました。 高倉塚古墳群の古墳をいくつかみてまわり、帰りました。
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熊野神社の裏手にある古墳です。珍しい上円下方墳で、この型で全面葺石の古墳は、こちら以外には全国に3例しか確認できていませんが、3段式の墳丘と横穴式石室を持つのは他に例が無く、相当レアな古墳のようです。姿もとても綺麗で、私もこのような形の古墳を見るのは初めてでした。こちらの古墳の周辺にも、6世紀~7世紀に造られた古墳群が、立川段丘面の南の縁、府中崖線に沿って点在しています。 熊野神社古墳が造られたのは7世紀中頃、大化の改新の直後、府中に武蔵国府が置かれるちょっと前くらいとのことです。被葬者のことはわかっていませんが、3段式の上円下方墳であること、全面が石で葺かれていること、高度な土木技法が用いられていること、3室構造の横穴式石室を持つこと、七曜文の装飾のある太刀が副葬されている、といった特徴が当時の武蔵国にとっては先進的なもので、他に類を見ないことから、中央とのつながりの強い、相当な有力者が埋葬されていたのではないかと言われています。
mktmkt
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武蔵府中熊野神社境内にある上円下方墳で、葺石と貼石におおわれた状態が見事に復元されています。本殿奥の曰くありげな場所にありますが、神社がこの地に移転してきたのは江戸時代であり、たまたまお隣さんになっただけの間柄です。境内の塚が盗掘済みの墳墓であることは明治時代には既に知られていて、石室を奥社に見立てて祭事なども行われていたそうですが、この地に古墳があったとの記録がなく、正式に古墳と認められたのは二〇〇三年です。それからは発掘と保全、国史跡指定、復元に周辺整備ととんとん拍子にことが進み、全国的に見てもかなり良好な状態の古墳となっています。石室入口は閉塞されていて中に立ち入れないのと、は副葬品はほぼほぼ盗掘済、被葬者の遺骨も散逸していて妄想がはかどらないのは残念なものの、悪くない見ごたえです。公共交通機関でのアクセスも良いので、首都圏にお住いの方であれば気軽に立ち寄れます。
七面鳥放浪記七面鳥放浪記
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日本国内で3例確認されている上円下方墳(じょうえんかほうふん)です。古墳は、7世紀前半に築造されたと考えられています。上円下方墳では国内最大で、最古級の古墳であることが判明しています。 墳丘の2段目と3段目は葺石に覆われています。1段目方形部が1辺32m、2段目方形部が1辺23m、3段目円丘部が直径16m、全体の高さは5mです。 南側に入口をもつ横穴式石室で、全長約8.8m、玄室・後室・前室の複室構造で、羨道の南側にハの字型の前庭部があります。 室内からは被葬者のものとみられる歯や、七曜文が銀で象嵌された鞘尻金具、玉類、刀子などが出土しています。
ホタカ・東京ホタカ・東京
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Tumulus Museum of Musashi Fuchu Kumano Jinja
Nishifucho Ryokuchi

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Japan, 〒183-0031 Tokyo, Fuchu, Nishifucho, 2 Chome−9−5
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Phone
+81 42-368-0320
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Website
kankou-fuchu.com
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Description
The Musashi Fuchū Kumano Jinja Kofun is a Kofun period burial mound located in the city of Fuchū, Tokyo in the Kantō region of Japan. It received protection as a National Historic Site in 1970.
attractions: Tumulus Museum of Musashi Fuchu Kumano Jinja, Nishifucho Ryokuchi, restaurants: Nankintei - Kunitachi, Kura Sushi Fuchu, Ringer Hut Fuchu Nishifucho, Fukumimi, Tokyo Ichigo Cafe, SAMCHONPO, Marugen Ramen, Bikkuri Donkey, Maruyasu, Masuda-ya

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