とある晴れた日の午後、少しばかり歴史のロマンに触れたい気分になり、以前から気になっていた都内にある古墳へと足を運びました。最寄りの駅から歩いて約10分ほど、住宅街の中に突如として現れるその姿は、まるでタイムスリップしたかのような感覚を覚えます。周辺には案内板も設置されており、初めて訪れる私でも迷うことなくたどり着けました。
この場所は、その昔、このあたりを治めていた有力者が眠る場所だそうで、今から約1500年も前の古墳時代に造られたとされています。訪れる前は、ただの小高い丘を想像していたのですが、実際に目の当たりにすると、その規模の大きさに圧倒されます。八角形という珍しい形をしていて、日本の古墳の中でも非常に貴重な存在だと知りました。他者の意見でも、この形状の美しさに感動したという声が多かったです。上から見ると、まるで幾何学模様のような美しさがあり、当時の技術力の高さに驚かされます。
古墳の周囲はきれいに整備されていて、まるで公園のようでした。芝生が広がり、散策路も設けられているので、ゆっくりと見て回ることができます。近くには資料館も併設されていて、そこで当時の様子や出土品についての詳しい説明を受けることができました。実際に展示されているレプリカの埴輪などを見ると、当時の人々の暮らしに思いを馳せることができて、とても興味深かったです。ただ、もう少し展示のボリュームがあれば、さらに充実した体験ができるのにな、とも感じました。
この場所を訪れる人の中には、歴史好きの人はもちろん、ジョギングや散歩を楽しむ地元の人々も多く、日常に溶け込んだ歴史の場所という雰囲気がありました。私が訪れた際も、親子連れが広場で遊んでいたり、ベンチで読書をしている人がいたりして、思い思いの時間を過ごしていました。このような歴史的な場所が、地元の人々に愛され、大切にされているというのは素晴らしいことですね。
少しだけ気になったのは、解説板がやや少なく感じた点です。古墳の全体像や、各部の役割について、もう少し詳しい説明があると、より深く理解できるのになと思いました。スマートフォンで調べれば情報は得られますが、その場で視覚的に解説されていると、もっと学びが深まるはずです。それでも、都心からそれほど離れていない場所に、これほど大規模で歴史的に価値のある場所があるというのは、改めて日本の奥深さを感じさせてくれます。
ここでの体験は、単なる歴史学習にとどまらず、時間を超えたロマンを感じさせてくれるものでした。もし、日常の喧騒から離れて、静かに歴史に浸りたい気分になったら、ぜひ一度訪れてみることをおすすめします。きっと、心が落ち着き、新たな発見があるはずです。 ある晴れた日、私はふと、いつもと違う場所へ足を踏み入れたくなりました。スマートフォンで地図を眺めていると、見慣れないアイコンが目に留まります。「古墳」。しかも、ただの古墳じゃないらしい。なんでも、日本でも珍しい上円下方墳という形をしているとか。好奇心に背中を押され、私は電車に飛び乗りました。最寄りの駅から歩いて8分ほど、神社の境内を進んだ先に、その姿は現れました。
想像していたよりもずっと大きく、そして美しい姿に、思わず息を呑みました。二段の四角い土台の上に、まるでケーキのように丸い墳丘が乗っているんです。表面は河原の石でびっしりと覆われていて、これは「葺石(ふきいし)」というものらしいですね。他の方のレビューでも「まるで要塞のようだ」と表現されていましたが、まさにその通りで、古代の技術の粋を感じさせます。なんでも、これ、7世紀の中頃、飛鳥時代に造られたものだそうで、石で覆われた上円下方墳の中では、日本で一番古くて、一番大きいらしいんです。当時はこのあたりを治めていた有力な人がお墓として使ったんだろうな、と想像すると、なんだかロマンを感じますよね。
古墳のすぐ隣には展示館があって、ここがまた面白いんです。中に入ると、まず目に飛び込んできたのは、古墳の内部を再現した石室の展示でした。実際に石室の入り口から中を覗けるようになっていて、薄暗い空間にライトを当ててみる体験ができるんです。ちょっとした探検気分で、子供たちも喜びそうだなと思いました。実際に発掘された当時の状態を再現しているそうで、鉄製の釘やガラスの玉なんかも見つかったらしいですよ。これらの出土品は、この古墳に眠る人がどれほど力を持っていたかを物語っている気がします。
展示館では、古墳がどのように発掘され、どのように復元されていったのかがパネルで詳しく紹介されています。実は、この古墳、昔から地元の熊野神社の境内にある小山として知られていたそうですが、まさかこんなに貴重なものだったとは!関東大震災の時に一部が崩れた際に石室の存在が明らかになったという話もあるみたいですね。他の人の意見でも、地元の人が大切にしてきたことが伝わってくる、という声がありましたが、まさにその通りで、地域の宝として守られてきた歴史を感じます。
見学を終えて展示館を出ると、再び古墳の雄大な姿が目に飛び込んできました。この地で、はるか昔、人々の暮らしがあったことをありありと感じさせてくれる場所です。都会の喧騒から少し離れた場所にあるので、静かに歴史に思いを馳せたい方にはぴったりだと思います。古代のロマンに触れたい方、ちょっと変わったお出かけスポットを探している方には、ぜひ一度訪れてみてほしいですね。無料で見学できるのも嬉しいポイントです。ただ、駐車場はなさそうなので、公共交通機関を利用するか、近くのコインパーキングを探すのが良さそうです。私は今回は電車で行ったので、駅からの道のりも心...
Read more2022年1月下旬訪問
全国的に非常に希少な上円下方墳!
目の前の道を通る度に気になっていた古墳。 やっと訪問出来ました。 7世紀の飛鳥時代のとても希少なもの。隣接の記念館に設けられた室には新型コロナウイルス対策のため、入室出来ませんが、記念館の展示で古墳の中、発見された経緯などを知ることが出来ます。 コロナ明けに改めて訪問させていただきます。
以下、府中市ホームページより抜粋
武蔵府中熊野神社古墳とは?
武蔵府中熊野神社古墳は、飛鳥時代の7世紀の中頃(今から約1350年前)に築造された古墳であり、四角い墳丘(ふんきゅう)の上に丸い墳丘が重なった形で、上円下方墳と呼ばれています。この形は、古墳時代の終わり頃に造られるようになった、全国的にも非常に希少な形の古墳です。武蔵府中熊野神社古墳は、国内の発掘調査により確認され、石が葺(ふ)かれている上円下方墳の中では最大規模であり、もっとも古いものです。
古墳の形と大きさ
古墳は、三段構造で各段とも盛り土で築かれています。上から見た形は、1段目と2段目が正方形で3段目が円形です。2段目と3段目は全面が河原石(かわらいし)で覆われています。側面を「葺石(ふきいし)」、上面を「貼石(はりいし)」と呼びます。1段目の外周には直方体に面取りされた切石(きりいし)による「縁石(えんせき)」が並べられています。南側の切石は、石室前を占める前庭部の縁石に接続し2段目の側面に接合しています。2段目の側面は小口積みという積み方で、上面は扁平な河原石と丸い小石が平らに敷かれています。2段目の南側を切り込む形で石室の入り口が設けられています。入口は切石で組み立てられています。3段目は葺石が円環状に積まれ、その上は、扁平な河原石で覆われたドーム風となり、最上部は石が平坦に敷かれたと推定されます。 古墳は、中央の支配権力を目に見える形で表したもので、大きさや形に政治的意図が反映されると考えられ、設計法が研究されています。武蔵府中熊野神社古墳の墳丘にも規則的な設計が見いだされます。古墳全体の中心軸は真北よりも西へ7度傾いており、磁北(じほく)に近い方向を示しています。墳丘の1段目の一辺の長さ32mは、上円部の直径16mの2倍です。2段目の正方形の一辺の長さ23mは、上円部がすっぽり収まる正方形の対角線とほぼ同じ長さに造られています。これらは、1尺が約35cmの高麗尺と呼ばれる単位で設計されたものと考えられます。調査時に残存していた古墳の高さが約5mありました。そこで、復元の高さは、高麗尺での18尺に近い約6mとしています。
石室の構造
石室は、横穴式石室(よこあなしきせきしつ)で、三室構造でした。一番奥の玄室(げんしつ)は、壁面が丸みを帯びた部屋で、奥壁は特に大きな石が使われていました。壁面は切石で組まれ、床面は平たい河原石が敷かれていました。 墳丘の断面をみると、異なる土の層を重ねる版築(はんちく)工法が採用されています。ロームを盛って一端突き堅め、その上に黒土混じりの土を盛って突き堅めるということを繰り返し築いています。また、石室に使われた石の削り屑が混じった層もある事から、石室造りと墳丘造りの作業が並行して進められたと考えられます。また石室の下もロームを主体とした土により版築工法をしており、石室を支える頑丈な基礎となっています。
出土遺物
石室内に、埋葬時の副葬品は、ほとんど残っていませんでした。しかし、ガラス玉・鞘尻金具(さやじりかなぐ)・環金具・釘が残されていました。 この中で特に注目されるのは、大刀(たち)の一部である、鞘尻金具に刻まれた「七曜文(しちようもん)」という文様です。これは和同開珎(わどうかいちん)(708年初鋳)よりも古いといわれる富本銭(ふほんせん)にもみられる文様ですが、さらに7世紀後半のものと考えられます。また、遺体を納めた棺の飾り金具と思われるものも出土しており、被葬者は木製の棺に納められたと思われます。釘類が2箇所にまとまっていたことから、埋葬が二度以上行われた可能性も考えられます。
築造時期
石室の形態や鞘尻金具の特徴やその出土状況などを総合して考えると、この古墳は7世紀中頃には造られていたと考えられます。この頃は、畿内の中央政府によって、統一された日本の国が形づくられようとしていた時代であり、武蔵国に国府が置かれる直前と考えられます。 それまで各地域で造られていた古墳とは異なる形態の上円下方墳は、時代の変化を示すとともに、府中に国府が設置された背景をうかがわせる歴史的に主要な築造物といえます。 熊野神社古墳に類似した石室には、八王子市の北大谷古墳や三鷹市の天文台構内古墳があります。これらの古墳も7世紀代の古墳と考えられています。本古墳には掘り込み地業(ちぎょう)等の少...
Read more国指定史跡です。 7世紀前半に造られた上円下方墳という全国でも非常に珍しい形態の古墳でしかも他の上円下方墳は全て2段築造で3段に築造されたのは今の所、全国でもここだけのようで、さらに上円下方墳としては最も早く造られました。
熊野神社の裏の小山に山車の収蔵庫をつくるにあたり発掘調査した所、上円下方墳である事が判明したそうです。
出土品として特筆すべきは太刀の鞘尻金具で 古代中国の陰陽五行思想にもとづいたと見られる七曜紋が施されていて出土品としては国内外ともに全く見られない文様だそうで、僅かに日本最古の貨幣である富本銭にその文様が使われているだけのようです。 その他には棺に使われていた釘やガラス小玉なども見つかっています。 未盗掘ならば古墳の形状から相当な埋蔵物が眠っていたはずで、その点では残念です。
この古墳には当時の最先端の築造技術が随所に使われていて、大王クラスか中央と血縁関係にあった人物が葬られたと想像でき、この地に国府が置かれた理由にも密接に関係していると思われます。 お隣には石室の実物大のレプリカがある資料館もあり見学も無料です。
私が訪れた時に、たまたま熊野神社の関係者の方がおられて、お話を伺う事が出来、大変有意義な時間を過ごさせて頂きました。 この場を借りてお礼申し上げます。
現在は地元の方々が保存会を立ち上げて古墳を守っているそうです。 有名な奈良県明日香村の石舞台古墳も上円下方墳だったのではないかと言...
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