複雑な路地を持つ町で、それが迷路のようだということからつけられた名称です。敵の侵入から島民を守るために意図的に造られたともいわれますが、正確なところはわかっていません。 基本的に城下町は入り組んだ町並みをしています。これは敵がまっすぐ突っ込んで来られないよう整備されるためです。一方迎撃(要は打って出るとき)のことも考えられていて、ある程度道幅は確保されているものです。しかしこの街並みはあまりにも狭く、銃を担いだ兵士は通れたのでしょうか?こう考えると、この街並みは整備されたモノでなく自然発生的なモノではないかと思われます。 ところで、最近は東京も「再開発」され随分と街並みが綺麗になりました。しかしつい50年くらい前までは、車どころか自転車も入れない小道がワンサカあったのです。当然未舗装で小便臭くイヌ(もしかしたらヒト?)の**が転がる道が、都内の至る所にあったのです。そんな町を「20世紀少年」たちは駆けずり回ったのですよ。思うに都内にこんな迷路みたいな小道が残されていたのは空襲のせいじゃないでしょうか? 終戦直後の東京には米軍の爆撃で焦土と化し、一家全滅・所有者不明となった土地が多くありました。そして、そんな土地を他人が勝手に「所有・開発」したため、ほそい私道で区切られた町並みが出来上がったのではないかと考えます。だいたい、当時の「手書き登記書類」なんぞは簡単に書き換えられたでしょうし……. この辺は松本清張の「砂の器」に詳しく書かれていますから、興味のある方はご確認ください...
Read more「土庄町:迷路のまち」 2024年5月に再訪問しました。前回はバイクだったのですが今回は徒歩です。より詳しく巡ることができて良かったです。
なぜ、迷路のまちと呼ばれるのか。それは約680年前に遡ります。小豆島は、新たな権威を模索する南北朝の動乱の戦いに引き込まれました。
延元4年(1339年)備前児島の勇将、佐々木信胤は小豆島へ押し入り、星ケ城に陣を構えました。しかし、その8年後には北朝方の四国の総大将・細川頼春指示のもとに細川氏が大軍を率いて小豆島に攻めよせ南北両朝の軍勢が海上と陸上とで、総力を挙げての決戦の地となりました。
複雑な迷路のような入り組んだ路地は、当時の攻防戦に備えたもので、現在の日本ではこのような路地は次第に姿を消し、今では珍しいものとなっています。昔ながらの昭和のまちを楽しみながら...
Read more小豆島国際ホテルから妖怪美術館へ向かう途中、迷路のまちを訪れました。その風情ある町並みは一定の魅力を持っていますが、"迷路"というほどではなかったかもしれません。通常の島しょ部の町と比較して、特別な点を探し求めると、少し期待外れに感じるかもしれません。看板が掲げられているということは、もう少し観光地としての独自性や工夫が求められるかと思いました。とはいえ、徒歩で訪れるには十分な距離であり、時間に余裕があれば訪れ...
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