兵士たちの食事や鎧の修理など「日常」の生活感の漂う、兵舎や倉庫の復元がとっても素敵です(笑)。観光的に見栄えのする大手門や天守はよく再現されますが、こういった城の本来の機能を支える地味な施設は無視されがちですからね。 玄人受けする渋い城郭であると同時に、山頂の櫓から見下ろす足助の町や山々の眺望も素晴らしく「城郭」に興味のない人でも十分に楽しめる施設になっていると思います。
足助は巴川沿いに発展してきた谷間の小さな静かな町です。しかし名古屋と長野県飯田を結ぶ「信州飯田街道」が途中で岡崎方面に分岐する「足助街道」との結節点にあたるため、交通の要衝として様々な武将の争奪の対象となってきました。 それらに対抗するために、地元の足助鈴木氏が15世紀ごろに築造したのが、この足助城(真弓山城)になります。
記録の上では最初に2000の兵と共に、この城に押しかけてきたのは徳川家康の祖父の松平清康で、一旦は松平氏の傘下に入ります。しかし清康が部下に暗殺され勢力が衰えると、今度は今川氏3500が侵攻してきて臣従させられます。しかし鈴木氏の苦難の物語は、まだ始まったばかりだったのですよ(笑)。
桶狭間で今川義元が討ち取られると、再び松平家康の元へ。情勢は安定したかに見えましたが、1571年に「地獄の使者」武田信玄が22000の大軍で西上作戦を開始すると、鈴木氏は戦うことなく一族を連れて岡崎へと逃れます。足助城は武田氏の所有となり、家康所管の吉田城攻略の拠点として使われました。
信玄の病死により西上作戦は頓挫するのですが、この期に家康の嫡男「信康」が3000の兵で奪い返し、鈴木氏は城主に返り咲く事が出来ました。後は先祖代々の土地で穏やかに暮らすはずが・・。 小田原戦役が終わり豊臣秀吉が全国統一すると、主君の徳川家康が秀吉から関東への「国替え」を命じられたため鈴木氏も従って足助城を出ていかざるを得なかったのです。この時に足助城は廃城になったとされています。
鈴木氏は権力の綱渡りや宮仕えに心底疲れ果ててしまったのか、関東に移転後は家康から離れて浪人したようです。まぁ気持ちは分からないでもないですね(笑)。 小さな城ではありますが、このような背景を知っていれば、...
Read more真田戦記 足助城・真弓山城 地図上では足助城と真弓山城は別表示となっており一気に2城と、おいしい思いが出来ると到着と同時に入場門の人に、開口一番、この2城は別でどう違うんですか、と尋ねたら、同じですと、ケンモホロロに言われ、少し拍子抜けはしたものの気を取り直し攻城にかかる。ここは駐車場からも近く、人も多くなく、お勧めです。簡単ですが城の歴史を記しておきます。 かつては足助氏の築いた足助七屋敷の1つと推測されていたが、後述の発掘調査で足助氏の時代の遺構が検出されなかったことなどから、現在では戦国時代にこの地を治めた足助鈴木家の本城であったと考えられています。1525年(大永5年)に松平清康がこの城を攻めた記録が残り、この際に清康の妹・久を2代鈴木重政の嫡子・重直に嫁すことで一旦は松平氏に下っています。その後は離反帰服を経て、1564年(永禄7年)に松平家康に攻められたのちは完全に服属し、以降は松平氏の家臣団として戦いました。1571年には、武田軍が25,000の兵で足助城を攻め落とし、城は武田家のものとなりました。さらに1575年には、家康の息子・松平信康が足助城を攻撃。この重要な城は、ふたたび徳川の手に渡りました。1590年、当時、天下をおさめていた豊臣秀吉の命により、家康は関東へ下り、その後、鈴木氏も足助を離れ、足助城は廃城となりました。足助城をめぐっては、度重なる戦が起こっています。それだけ足助城は戦略的に重要な城だったことがわかります。足助には、尾張(現在の愛知県西部)、三河(愛知県東部)、そして信濃(長野県)の間を通る伊那街道があったということ...
Read more真弓山城(まゆみやまじょう)は三河国加茂郡足助庄(現・愛知県豊田市足助町)の真弓山(標高301メートル)にあった日本の城。現在では「城跡公園足助城」として整備・公開されている。
「足助城」「松山城」「足助松山の城」などと呼ばれ、かつては足助氏の築いた足助七屋敷の1つと推測されていたが、後述の発掘調査で足助氏の時代の遺構が検出されなかったことなどから、現在では戦国時代にこの地を治めた足助鈴木家の本城であったと考えられている。築城時期は不明。
1525年(大永5年)に松平清康がこの城を攻めた記録が残り、この際に清康の妹・久を2代鈴木重政の嫡子・重直に嫁すことで一旦は松平氏に下っている。その後は離反帰服を経て、1564年(永禄7年)に松平家康に攻められたのちは完全に服属し、以降は松平氏の家臣団として戦った。
1590年(天正18年)、家康の関東入国に従って鈴木氏も足助を離れ、...
Read more