咲く梅の 花ははかなく 散るとても 香りは君が 袖にうつらん
天狗党の乱の首謀者とされた武田耕雲斎の墓所。 天狗党の乱は、幕末の尊皇攘夷運動の本山たる水戸藩の権力闘争に端を発している。 水戸烈公徳川斉昭を中心とした勢力を敵対勢力が高邁であると蔑視したのが「天狗党」の由来である。
斉昭の死後、反天狗党の巻き返しにより天狗党は水戸領内に居場所がなくなりつつあった。 そこで水戸藩出奔し京都を目指した。 京都に一橋慶喜がいた。 のちに最後の将軍職を嗣ぐこの人物は京都に常駐して幕府の対朝廷外交をとりしきっていた。 慶喜は斉昭の実子であり一橋家の養子であった。 武田耕雲斎らはこの慶喜にすがり天皇のもと幕府に対し 攘夷の実行を迫る嘆願を行おうととした。
頭領に担がれば神輿となったのは水戸藩家老武田耕雲斎。 首謀者は藤田小四郎という国学者であった。 小四郎は斉昭の懐刀ともいうべき家老の藤田東湖の息子であった。 いずれもその身分は「水戸様の御老臣」 平時ならば封建社会における歴々の身分の者たちでだった。 軍容は一見堂々としていた。 将校である騎馬武者が二百騎、大砲が十五梃、人数はあわせて千余人であったと伝わっている。
筑波山から敦賀まで諸藩や幕府軍と戦い ながら行軍した。 通過途中の諸藩は戦意が低く、さしたる抵抗もなく岐阜鵜沼まで進軍した。 ここから先には譜代筆頭の井伊彦根藩が押し出していた。 彦根藩は藩主であった大老井伊直弼を水戸藩脱藩藩士に暗殺されており水戸藩の尊王攘夷派には恨みを持っており戦意が高かかった。 また精兵であると思われていた。 このため天狗党は琵琶湖の周辺を通るのは難しいと考え北上し越前大野に入り越前敦賀付近にまで進出した。 しかし頼みにしていた慶喜自身が武田らに対する追討総督になり越前新保...
Read more幕末の水戸藩は第9代徳川藩主徳川斉昭(なりあき)を中心として徹底的な鎖国により尊王攘夷を掲げていた! 理由としては、アジア各地が外国勢に侵略され植民地化され文化崩壊や、アヘンにより亡国的な状況を呈しているのを知っていた為.........。 但しアメリカ等の開国圧力も防ぐ意味もあったが同じように、斉昭はロシア等による南下を防ぐ為にも海防軍備の増強をも進言していたのである......。
そのうち外国による開国の圧力も日に日に強まり、ついに幕府側から斉昭は幽閉されるなど冷遇されていた。その為、水戸藩では藩主がないがしろにされ続けており、不満が増加しつつあった!
そんな中で、開国を進める幕府側の大老井伊直弼に対抗して、水戸藩内でも穏健派と急進派に大きく分かれており、その急進派は「天狗党」(攘夷思想に対して有頂天に成りあがり、天狗になっている輩とも穏健派から揶揄されての意味もあり)と呼ばれていた。いわゆる水戸藩内や井伊直弼の幕府との内ゲバ! ...
Read more真田戦記 武田耕雲斎等の墓 福井県敦賀市2丁目9 武田耕雲斎本陣跡 福井県敦賀市新保27−30 1864年、武田耕雲斎が率いる水戸天狗党は、尊王攘夷を唱えて挙兵します。朝廷に志を訴えようと京都へ上る途中、敦賀の新保で捕らえられました。幕府は厳しい処罰を下し、翌年、来迎寺で353人が処刑されました。国史跡である「武田耕雲斎等の墓」は彼らが処刑後に埋葬された墓所です。 1864年12月11日、水戸天狗党は木ノ芽峠を越えて、新保村に到着し、葉原村に陣どる加賀藩と対峙することとなります。しかし、交戦を望まない水戸天狗党は戦闘を避けようと加賀藩と交渉を重ねます。その交渉が行われたのが、武田...
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