500回目の100kmサイクリングに7時40分に自宅を出発。138ツインタワーを目指し22号線側道を軽快にペダリング。500回目の区切りのサイクリングという事で走り馴れた長良川サイクリングロードをしみじみと噛みしめながら南下し目的地である津島神社を目指す。ただし、長良川サイクリングロードの荒れ放題はいかがなものか。路面は草が伸び放題でロードの両法面からは雑草がロードを覆い被さり走行性は最悪でした。この最悪に遭遇したサイクリストは2度と長良川サイクリングロードを走行しないと思います。138ツインタワーから木曽川橋を渡り岐阜駅―忠節橋―長良川サイクリングロードを南下―墨俣一夜城―道の駅クレール平田―木曽三川公園(海津市)にて休憩。土曜日なのか園内は人出もまばらでした。昼食と水分補給を済ませ出発です。長良川大橋、立田大橋を渡り東進。155号線佐屋南交差点を左折して北上。江西町交差点を右折すると津島神社です。津島神社は愛知県津島市神明町1にあります。鮮やかな大きな赤い鳥居が出迎えてくれます。境内はとても広くて大きな神社でした。津島神社は歴史ある神社で全国天王総本社で全国に約3000社の御分霊社があるようです。楼門と三間社流造りの本殿は桃山様式。織田、豊臣、徳川の3家から保護を受け江戸時代には伊勢参りとあわせ津島参りも盛んであったようです。津島神社を後にして木曽川堤防道路に向かう。南からの風を背中に受け軽やかに堤防道路を北上する。東海大橋―馬飼大橋―木曽川祖父江緑地を左折し木曽川堤防道路を北上し西中野で右折し513号線を東進。萩原町、大和町を経て稲沢の自宅に14時20分に到着。走行距離105kmで6時間40分の爽やかなサイクリング日となりました。立ち寄った場所の写真を添付しました。2011年5月からスタートした100kmサイクリング。2022年9月に無事500回目を迎えました。500回の日時、走行距離をメモ書きですが添付しました。細かくて見ずらいですが60代、70代の年齢を重ねても自己管理をすればできます。継続は力なりです。走行距離はサイクルコンピュータで管理。一度電池交換をしています。37322km+11961kmでト−タル走行距離は49283kmです。1回平均走行距離は98.56kmでした。計画当初の結果から判断して自分としては100km走行達成とします。また新たな目標を見つけて挑戦です。4月16日追記。天王川の藤まつりを堪能後に津島神社に立ち寄りました。赤い鳥居を潜り手水舎にて手を浄め歴史ある境内に妻と厳かに敬う心で楼門、本殿を参拝しました。風が強い日でしたが藤まつりを堪能し、津島神社で今日の無事を報告して帰路に...
Read more津島神社(つしまじんじゃ)。愛知県津島市神明町。
式内社(小)国玉神社(クニタマノ)論社、旧國幣小社。 八坂神社とともに牛頭天王信仰の二大社として知られる。
主祭神:建速須佐之男命 配祀 大穴牟遲命
資料によると、 当社は東海地方を中心に全国に約3千社ある津島神社・天王社の総本社であり、その信仰を津島信仰という。津島神社が諸国に勢力を拡大した背景には、御札を配って祈祷を行う津島御師の活動が大きく、織田信長は御師の布教活動を保護し、尾張藩もこの保護政策を継承して他領での布教活動に許可を与えた。
津島牛頭天王社と称した神社で、社伝によると、祭神・建速須佐之男命が、欽明天皇元年(540)、対馬より当地へ来臨したため、津島と称するという。
弘仁元年(810)、勅により日本惣社の号を、一条天皇正暦年中、天王社の号を賜った。
式内・国玉神社の論社とする説がある。 対馬から来た素盞嗚尊を祀る国玉神社ならば、その元社は、対馬の島大國魂神社あたりだろうか。
また、一説には、境内南に東面する居森社が国玉神社の旧地で、本来、国玉神社は大己貴命一座を祀っていたが、後に少彦名命・素盞嗚尊を配祀して三座となった。 居森社の左右に小社が2つ並ぶのは、その名残。 南門内左手にある弥五郎殿社が、その後身で、正平元年(1346)武内宿禰公末裔・堀田弥五郎正泰によって造替られたため、国玉の社名が消え、弥五郎殿社となったという。 堀田弥五郎は、楠正成に従い、四條畷に於いて戦死した南朝の武将。 とあります。
参考として、 名古屋ではスサノオ・牛頭天王は「お天王さま」と呼ばれた。「津島代参講」と呼ばれる講が各地に作られ、講の代表者が津島神社に代参して神札を受け、講の構成員に配布した。時代が下ると、町内に津島神社を勧請して小祠を作るようになり、さらには、各戸の屋上に牛頭天王を勧請して祀る「屋根神様」の信仰が生まれた。
スサノオ・牛頭天王の神紋は木瓜紋であり、また東海地方を拠点とし、津島神社を崇敬していた織田家は木瓜を家紋とし、この二つは容易に結び付けられた。
津島信仰と朝鮮半島: 津島信仰は、東海地方を中心に広まりましたが、そのルーツや関連する信仰を辿ると、朝鮮半島との関係も視野に入れる必要があります。例えば、津島神社に伝わる「蘇民将来」の伝説は、朝鮮半島にも類似の伝承が存在します。また、津島信仰における「天王」信仰は、朝鮮半島におけるシャーマニズムの影響も指摘されて...
Read more延喜式神名帳の尾張國海部郡の項に記載のある國玉神社の論社の一社が当社の末社の弥五郎殿社という説があります。 名鉄津島駅の西に鎮座する牛頭天王信仰を代表する社のひとつ。 御祭神は建速須佐之男命を主神とし、大穴牟遅命を相殿に祀っています。 この地は11世紀頃から「津島の渡し」があったことでも知られていて、古来、伊勢から尾張への入口の場所。 そして、もっと古くにはこの周辺に海水が流れ込んでいて、津島は伊勢湾に浮かぶ一つの島でした。 伊勢湾台風のときはまさにその風景が再現されてしまった。 ・ 社伝によると、孝霊天皇の御代に素戔嗚尊の和魂が朝鮮半島より戻り、まず対馬洲に移り、欽明天皇の御代、当地に降臨した。そこで、この地の名前を津島と言ったという。はじめは、居森の地(現在の居森社のあるところ)に鎮まり、その後、天平元年に柏宮(現在の柏樹社のあるところ)に移り、その後、弘仁元年(810)に現在地に遷座したといいます。 なお、延喜式には尾張國には「馬津」の駅名があるものの、津島の地名は見えない。 ・ 全国の天王信仰は「蘇民将来伝説」にちなむ疫病退散の神を祀るのが中心だが、その信仰を説いて全国を回ったのが御師だった。当社は東海以北で、その分社はとても多く、それは当然、当社が伊勢に向かう東海道沿いにあったということもあるが、この御師の活動の影響も大きかったようだ。 ・ 居森社 社伝によると当社は素戔嗚尊が対馬から津島に降臨された際に最初に鎮座した場所。一説にはこの場所が式内社の國玉神社の旧地といわれる。國玉神社の御祭神は当初は大己貴命。素戔嗚尊が対馬から降臨し、その地に國玉神社があるということは、素戔嗚尊を祀る対馬の島大國魂神社との関係もあるかもしれない。 この居森社のすぐ近くに「三つ石」という古代の磐座があり、当社の当初の鎮座地であった可能性は高いといわれています。 ・ 弥五郎殿社 津島神社の拝殿に向かって右側にある大きな末社。 この神社は社家堀田氏の所管となっていて、堀田弥五郎が夢から建立したという。社伝によると、地主神とも伝えられていて、式内社の国玉神社に当てる説もある。これによると、当初は地主神を祀る國玉神社だったが、堀田弥五郎により堀田氏の祖神である武内宿禰を祀る弥五郎殿社に変わったという。 なお、堀田弥五郎は四條畷の戦いで戦死したが、四條畷...
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