私が知る日本軍の豪分布位置の解明、そのまえに、[浦添の戦争で、ようどれ(王家の墓)も失われ、城壁は破壊され、戦後 復興建設資材用で残って居た城壁の石も使われて、失われました。ここでも、戦争で避難住民は約58,8%で549名以上の方が亡くなれた?また、約29人の日本兵生存者がいて、内数名が語った回想録で日本軍が戦い中で隣地豪をどの様に活用して居たか] グスク公園は悲惨な激戦地であった。
今と違って、大地は米軍の砲弾攻撃により起伏状態で変り果てていた。現在 頂上の公園には奇跡的にディーグガマが残って居る。(名前の由来は近くにディゴの木が立っていたとある。又 拝所でも有った)半壊状体であったガマの拝所は復元され。戦時、住民と日本軍もこのガマや南側の崖下に点在するガマと周辺のガマやエントランスに有る南北貫通豪にも避難場所に使われていた。戦後、この地で戦死なされた方の遺骨はこのディーグガマと南側で崖の下にあるクチグァーガマに分けて一時収容されていた。今は遺骨を摩文仁に移してあります。
[米軍側は戦闘で亡くなられた米兵の遺体を丁重に毛布で包んで片付けて行ったが、悲しい事に前田高地、豪内や周囲の戦闘で亡くなられた 多くの日本兵や巻き添えに成った住民の遺体は戦後まで野ざらしであった。今なお各激戦地で残っている遺骨は発掘すれば出て来る!]
高地南側、麓の壕には南北貫通壕は存在せず、貫通壕は、中腹と頂上にのみ存在する。壕口AからGまでは高地麓にある陣地壕で有る。それでは以下、 陣地壕ごと個別に検討してゆこう。先ずは南側の麓には東からAからDは缶詰豪で一つの豪となる。(内部には缶詰が豊富にあって、また便所はA-口の出口内にあったと有る、坑道には水溜りが有った、それは壁からにじみ出た水が溜った場所で)皆に飲める程ではなかった。複雑な坑道を有する壕は、現存する壕では、中腹の賀谷隊本部壕とこの壕のみである。
缶詰壕のD位置から10m上にE-口兵員豪が有る。他の壕と内部でつながっていない独立した壕である。(後に志村隊と兵士が退却に失敗し戻って、缶詰豪と兵員豪に戦闘可能な兵士は分散して入っていた。)又 麓の西向き遊歩道の間にFとG口乾パン豪が有る。F-口の看板は無いがG-口位置から後戻りして遊歩道より斜面上の草木奥にF-口看板とともに有る。戦争で両口は砲弾で埋没していたが、現在はG-口だけ掘り返されて開いて居る、F-口は埋まったままで、天井に穴が小さく開いている。(缶詰豪と乾パン豪は軍の食料集積場所で有った。)後に乾パン豪は重症者の収容に使われた。日本兵はここを患者豪とも呼んでいた。
続いて中腹で為朝岩、[以前は前田高地平和之碑から霊園を迂回して為朝岩に着たが、現在は西の中腹に遊歩道は整地されて、直接為朝岩に行ける。] この場所も激しい激戦地で、至る所に穴の痕跡が有る。(2016年まではこの遊歩道は無く、立ち入る事は出来なかった。)更に遊歩道を西向きに進むと、複数の火炎放射器で焼かれた跡の崩れたガマの崖肌が観られる。先に進むと二番目の階段で。 為朝岩から約80mに位置する岩で、その裏側に草木の奥に有って、金網で囲った口がある。そこは賀谷隊本部豪 入口のH−口である。私が見た時は金網は最近設置された様に見られた。
更にその階段をしたに下ると、小道を西え3 m 辺りから右手斜面上近くで、草藪の中に窪地の通路があった。そこにも奥に豪口が見られた。今の所不明であるが。戦跡ではないのか!更に西え約16m進むと斜面上にI-口がある。両方は賀谷隊本部豪の入口で有る。(I-口)この豪は特殊性を持つ豪て、現在 その坑道のみ北側の断崖に貫通しており。(北断崖の中程 にM-口に成る)中腹の入口は金網で囲って 中えは入れない。
この位置から更に7m進むと斜面右手には崖肌に台上え駆け登る為の足掛け穴が現存している。そして右側には木の根っこが被さる所に穴の痕跡が見られるが、口は岩で塞がっており。( 今の時点では不明であるとしか無い )兵士の分散豪として潜んでいたのであろう!続いて小道を17m西え進むと右手に窪地が有る。(半摺鉢の右端にJ−口大隊砲小隊豪が有る )ここも特殊性を持つ豪で有る。(志村隊本部のクチコミで明らかにする)現在は豪の入口は金網で囲って 内は岩や石ころで詰めて塞がれています。続いて半摺鉢中央位置に( K-口 )志村隊本部豪で、賀谷隊本部豪( H-口 )から約60m位置になる。
豪は自然洞窟で、北の崖下( N-口 )え繋がって居る。第63師団軍が中腹で複数の洞窟に 掘削作業を行っていた。この豪は 一部のみ手を加えて加工している。後に援軍として来た 志村隊が この豪に入って本部豪に活用していた。現在は北斜面側の平地面に貫通しており。(N-口に成る)今でも志村隊 本部豪の 入口の近くに寄ると冷たい空気が中から外え抜けるのが分かる。又 半摺鉢の窪地から小道を跨いで南側斜面窪地一帯に蛸壺隣地が有った。本部 豪を防衛と敵兵が頂上に来攻しても、反撃する様に蛸壺隣地豪が構築されていたが 今は砲弾で跡形も無く消滅して居る。小道で 、窪地下に避難に利用した半壊の豪口は今も残って居る。
隣りの崖、(半摺鉢側の左手)頂上足下近くに立坑が有る、L-口貫通豪で。(蛸壺豪か交通豪と思われる)そこの近くえ行けず、頂上に網の門が設置されて、崖の近くで危険性の為、関係者意外は入って探索は出来ない!裏側の斜面崖の頂上手前辺りの穴に繋がって居る。(O-口に成る)中腹の半摺鉢は頂上部分が前にせり出していたが砲弾で崩れて居る。頂上を占拠した米軍は各隣地豪口を破壊して日本軍は閉じ込められたが、後に石を掛分けて脱出に成功して出て居る。
続いて北側の平和之碑に移動して、崖に面して右手にPとQ豪(自然の洞窟)が有る。両方の穴は中から上に登って、横の穴に下って隣りの穴え辿り着く。穴の中は人が入って動くにはあまりも狭く。(不明で日本軍が構築した記録が無く。)そして平和之碑を面して裏側から左手上の斜面崖にO-口貫通豪で、(先ほど述べた立坑で、L-口に繋がる)
[ ここに来られる方は、平和之碑の裏側の崖で、左手の斜め上に草木で隠れた豪が口を開けているのが見られる。意外と知らない人が多く!ぜひ見上げてO-口穴を探して見てください ] この豪は頂上にあるため、採石前、戦時この豪はどこまで伸びて居て!軍の攻撃用交通豪か監視豪と云われているが、回想録にはこの先の事は記載がなく、同様にP-口とQ-口も不明である。
続いて左側の平地面に網で塞いだ穴はN-口貫通豪が有る、戦時ここに崖は無く、坑道は地下に成る。先は作戦室で終わっている。(K−口志村隊本部豪に繋がっている。)更に広場の中間辺りで崖の中程、近くに穴は開いて居る。M-口貫通豪で(I-口側の賀谷隊本部豪に繋がっている。先程述べた特殊性の豪で、)この坑道は頂上向け傾斜が細い穴は続き、先は終っていて出口では無く、覗き穴で近接する米軍の動きを監視していたと有る。
それに賀谷隊本部の頂上真上(採石で失われた場所)にも監視用銃眼が付いたトーチカが(セメントで)構築されていて、宜野湾方面の戦場の状況を監視していたと有る。砲弾攻撃で跡形も無く消滅している。(現在M-口、)崖は(2022年に有った台風で大雨が降って崩てたと有るが。現在は崖の中程に穴が見られる。戦後、両方の穴は大きく採石されて地形改変された事で発見された。)賀谷隊長と志村隊長は中腹を拠点に共同で戦闘を行っていた。
「前田高地壕口分布図の南麓壕口はAからGで、北側斜面は5箇所で壕口MからQで ある。これらの壕口のいくつかは、壕内で連結して居る、現在は、採石した事で中腹の(H,I,K,L−口)から北側斜面(O,N,M-口)まで 貫通しており。高地南側 麓の豪には貫通豪は存在せず。
さらに、グスクの入口で西側からグスクえ行く、坂のエントランスを進むと途中で右側に石灰岩の崩れた岩しか残って無いが!戦時ここにトーチカが有った様だが、破壊されて、その様な形は全く無い。更に進むと伊波普猷の墓が見え、(戦時、墓はまだ無く)城壁跡地の入り口手前の左側にも南北貫通豪口が有る。この豪はどの様な役割をしたのかは不明である。一説では北口には「監視所」トーチカがあったとか!また中央位置は十字路の様に見える。西向に進んで終わっている。反対側は通路手前で落盤で崩れ落ちた場所で、その先は待機場所だけであったかは不明で!
回想録の表現を借りるならば、高地麓と高地 中腹、それに高地頂上である。高地頂上と高地 中腹の壕は地頂上近くに配置され、高地 中腹の陣地壕はまさしく反射面戦闘のために構築された壕群であって、 激戦中に使用された壕となる。」
先ほどの平和之碑の平地に戻るが、東端斜面、崖上に(墓地区の私有地)石膏ボードらしき物で塞がれた跡が見られる。豪口遺構では無いかと思われる?又新たな情報では(M-口)とN-口豪の斜面崖側の間に大隊砲小隊豪から伸びる坑道で。(J-口、は先程述べた特殊性の豪で、志村隊本部と隣り合わせの豪になる。
現在...
Read moreディーグガマは、鍾乳洞が陥没してできた御嶽です。 デイゴの木があった洞穴(ガマ)が名前の由来です。
一七一三年に成立した地誌『琉球国由来記』には浦添城内の御嶽について記されており、その中に「渡嘉敷嶽」という名前がみられ、それがディーグガマにあたると考えられています。
戦後はガマの内部にコンクリートブロックの囲いを造りその中に戦没者の遺骨を納めました。 後に、遺骨は糸満市の摩文仁へ移されています。
※落盤のおそれがあるためガマ内部に入ってはいけま...
Read more「ディーグガマ」は浦添城内にある御嶽(うたき)。ディーグガマとは、鍾乳洞が陥没してできた御嶽。かって大きなデイゴの大樹があったことから、デイゴの木があった洞穴(ガマ)が名前の由来だそうだ。地誌『琉球国由来記』には、浦添城内の御嶽について記されており、その中に「渡嘉敷嶽」という名前が見られ、それがディーグガマにあたると考えられています。「琉球由来記」にある渡嘉敷嶽、とされ、「渡...
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