「浦添ようどれ」沖縄には何度も来ていたのに、この激戦地を訪れたのは初めてだ。 首里城も素晴らしいが、浦添城(特に浦添ようどれ)も復元とはいえ立派だ。浦添城はかつて沖縄中部を支配していた中山王が築いたグスク(城)であり、王宮が首里城に移される以前の、舜天(しゅんてん)王統、英祖(えいそ)王統、察度(さっと)王統の居城として13世紀~15世紀の200年余りに渡り琉球国中山(ちゅうざん)の歴史の舞台となった城。 浦添ようどれの入口は「暗しん御門」と呼ばれ、かつてはせり出した岩盤と石垣によって築かれたトンネル状の通路だったそうだ。残念ながら戦災によって岩盤が崩落し、現在はトンネルではなくなった。 標高約130mの琉球石灰岩の丘陵にあり、太平洋戦争の沖縄戦では、浦添城の一帯は「前田高地」と称し、首里周辺の防衛拠点として日本軍の陣地が置かれていた。戦前まで残っていた城壁の大部分は日米両軍の攻撃によって破壊され、今もなお地中には戦時中に築かれた地下壕が巡らされている。 現在では美しく蘇った王陵「浦添ようどれ」や「浦添大公園」は市民...
Read more琉球王統が発祥したとさられる浦添市。 伝承では、英祖王様は天孫てんそん氏の末裔という 世の主の子で、太陽の子ティダヌファー伝説をもち、伊祖グスクを拠点としていた。ティーダとは太陽の事です☀️
琉球王に関連するお墓までの道のりを写真で撮りましたが 王様が眠るお墓は失礼かと静かに眠っておられるので写真は控えました。 アーチの門の先かお墓でせ。
右側…英祖王の墓、左側…尚寧王(第二尚氏王統)の墓とその一族が眠っているといわれていました。 (浦添ようどれ) 伊祖城跡(浦添市) 英祖の誕生の地といわれています。
浦添総合は病院た近くには拜所もあります。
この時代には運悪く沖縄に大飢饉、疫病が蔓延し死者が多数出たので 優しきく責任感の強い英祖王様は 自らの徳の無さが原因だとと思い王政を任せる摂政を探し始めました。 浦添城を築城したり琉球史上初めて仏教を導入するや 沖縄で最初の寺極楽寺を建立し仏教の普及に努めた。 内政的には飢饉に苦しんだ義本王の苦境に鑑み租税の公平化など 善政治を行った今の時代に実在して頂...
Read more駐車場は「浦添ようどれ館」より西へ150m進んだ駐車場(15台くらい)が一番近いでしょう。案内板に沿って50m進み60段以上の階段を降りると、石積造りの「浦添ようどれ」に到着します。 「ようどれ」とは、海が穏やかな様子の「夕凪(ゆうなぎ)」が由来といわれ、静かな墓地というような意味だと思います。 琉球王国成立以前の三山時代に浦添周辺を治めていた「英祖王」の墓で、浦添出身で琉球王国の国王になった「尚寧王」が1620年に改修して、向かって右に「英祖王」の墓・左側に「尚寧王」の墓を造った共同墓地です。石崖を掘り込んだ横穴式墓室で、戦争時の激戦で破壊されましたが2005年に再建されました。 墓の間には「ようどれの碑文」(別名:ようとれのひのもん)という黒い石碑が建っていて、尚寧王が改修した経緯が表は平仮名・裏は漢文で描かれているそうです。 壮厳...
Read more