【木造阿弥陀如来坐像】 【宇都宮市指定文化財】(昭和52年3月8日指定) 阿弥陀仏は、万人を極楽浄土へ導く仏として親しまれている。 この仏像の内部に、室町時代中ごろの「明応 三年(1494)」という銘が見られる、定朝様の定 印阿弥陀仏である。定朝様とは、胸が平らで膝 が広く低く、円満な顔だちをした優雅な尊像で わ あり、和様彫刻の理想の一つとして尊ばれ、その様式は後世にまで伝えられた。
【木造普賢菩薩坐像】 【宇都宮市指定文化財】(昭和50年3月25日指定)像高/58.5cm この仏像は、白い象に乗った姿をしており、象が横向きであることから、釈迦如来の脇侍として造られたことがわかる。 本像は江戸時代半ばの寛政年間(1789~1801)に、宇都宮の仏師によって修復されている。胎内に「文和三年(1354) 甲午法眼院廣」の銘が見られる。また、やや下を向いた切長の眼、軽く結んだ唇、豊満な顔は、いかに温和な表情であり、このようなことからも南北朝時代の作であることがわかる。
【およりの鐘】 【宇都宮市指定文化財】(昭和59年3月21日指定) (高さ/117cm口径/81cm) この鐘は、宇都宮氏の滅亡(1597年)によって廃寺となった東勝寺(日野町通り北側一帯の地)にあったものである。江戸時代には夕暮れになると、宇都宮城下に鳴らされたので、「およりの鐘」として親しまれていた。 「おより(御寝り)」とは、「お休みになる」の意味である。 鋳造年代は不明であるが、鐘の中帯に宇都宮氏の家紋「三つ巴」が20個ほどついているので、宇都宮氏の寄進によるものであろう。 この鐘は、その後、様々ないきさつをたどって、昭和19年(1944)、宝蔵寺へ移され、今に至っている。
【粉河寺出土の石棺】 庫裡の前の植え込みの中に置かれている石棺は、明治37年(1904)に県庁前にあった粉寺跡から、出土したものである。 石棺の中には、即身成仏(生きたままで仏になること)したミイラが納められていたが、第二次世界大戦の戦火で焼失し、現在は石だけが残っている。 大寺であった粉河寺は、戊辰戦争(1868)や明治24年(1891)の火災によって、建物のほとんどを失ったので、同26年(1893)、宝蔵寺に各併され、焼け残った品々はこの寺に移された。
【木造普賢菩薩坐像】 宇都宮指定文化財...
Read more光明山摂取院宝蔵寺といい天台宗のお寺で、御本尊は阿弥陀如来と普賢菩薩の二尊になります。 二尊は木造阿弥陀如来坐像(制作年不詳)と木造普賢菩薩坐像(南北朝時代の作)になります。 天安元年(857年)に慈覚大師円仁によって創建されたと伝わり慈覚大師円仁が唐から持ち帰った白檀の若木が樹齢約一千年以上たち枯れた白檀で天保十五年(1844年)に作られたと言われる慈覚大師坐像を有する。 宝蔵寺は明応三年(1494年)に宇都宮城の鬼門鎮めの寺として現在地に移転したという、百観音堂・十王堂・山王堂などを有し宇都宮城内の薬師堂をも支配していました宝蔵寺の当時の敷地面積は七千余坪あったと伝えられています。 宝蔵寺の境内には明治時代初期の戦火で廃寺となった粉河寺(旧:小川島町)出土の石棺なども安置されている、また二階建ての山門(鐘楼門)には宇都宮氏の滅亡(慶長二年:1597年)によって廃寺となった東勝寺を合併していて、東勝寺にあった梵鐘を吊るしています。 木造普賢菩薩坐像は寛政年間(1789年~1801年)江戸時代後期に宇都宮の高田仏師により修復されましたがその時に像の底部に付けられた木片に文和三年(1354年)法眼院広の銘文がみつかり南北朝時代の作であるこ...
Read more宝蔵寺は、栃木県宇都宮市大通り四丁目にある天台宗の寺院。山号は光明山。本尊は阿弥陀如来と普賢菩薩。開基(創立者)は円仁(慈覚大師)と伝える。 寺伝によれば、857年(天安元年)に円仁によって創建されたとされ、円仁が唐から持ち帰った白檀の木が樹齢約1千年以上で枯れた1844年(天保15年)に作られたと言われる慈覚大師坐像を有する。境内には明治時代初期の戦火で廃寺となった粉河寺(旧・小川島町、現在の栃木県庁付近に所在)出土の石棺なども置かれる。現在の本堂は2004年(平成16年)10...
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