Go to Yahiko station and then walk about 20 minutes according to the available signs.
Yahiko station is an old station, still retains the old architecture and does not have an automatic card check counter. There will be staff to check train tickets.
There is also a treasure that is a 2.3m long sword called Shida no Otachi, the longest sword and included in the list of Cultural Property of Japan.
In particular, in the temple grounds there are two stones called "Hi no tama ishi" (火の玉石) which means "stone of fireballs", or commonly known as "Omokaru no ishi" (重) 軽の石) means "light heavy stone". It is said that when standing in front of these two stones, pray, then if you lift the stone and it feels light, your wish will come true, but if it is heavy, the wish will...
Read moreここは新潟県の一宮(一番格式の高い神社)です。⛩️⛩️⛩️ もはや説明はいらないでしょうが少しだけ説明します。⬇️⬇️⬇️
御祭神は天香山命(あめのかごやまのみこと)と申し上げ、皇祖天照大御神の御曾孫(ひまご)にあたられます。
彌彦神社の御創建について、社伝によると天香山命は第六代孝安天皇元年(西暦紀元前392年)二月二日に越の国開拓の神業を終えられ神去り坐して神劒峰(弥彦山)に葬られ、御子である第一嗣・天五田根命が廟社を築き奉祀した事に始まります。下って第十代崇神天皇の御代(御在位:紀元前97~30年)に、第六嗣(天香山命より七代)建諸隅命が勅を奉じて社殿を造営して以来、御歴代の天皇の勅による社殿修造がなされ、第四十三代元明天皇和銅四年(711)には勅により神域の拡張と神戸及び神領の境を定めたと伝えられております。 よって彌彦神社は御創建から二千四百年以上の歴史を有する神社です。
彌彦神社が初めて国史に見えるのは『続日本後紀』巻第二・仁明天皇天長十年(833)七月戊子条に
越後國蒲原郡伊夜比古神 名神に預かる 彼の郡旱疫有る毎に雨を致し病を救うを以てなり(原漢文)
とあり、同巻十二・承和九年(844)十月壬戌条では従五位下、『日本三代実録』巻第五・清和天皇貞観三年(861)八月三日条には従四位下の神階奉授の記述が見えます。また、八世紀頃の成立とされる我が国最古の歌集『万葉集』巻十六には
いやひこ おのれ神さび 青雲の 棚引く日すら こさめそぼふる いやひこ 神の麓に 今日らもか 鹿の伏すらむ 皮服(かわころも)着て 角つきながら
と、伊夜日子大神様の神々しさを詠った二首が納められており、延喜五年(905)奏進の『延喜式』巻十では越後国で唯一名神大社と記載され、また越後の一宮として朝廷から篤い尊崇を受けました。 このように八~九世紀頃には、遠く離れた都にも彌彦神社は顕著なる御神威ある神社として知られていたことが窺えます。
鎌倉時代以降では源頼朝が三千貫の神領を寄進し、南北朝時代には後醍醐天皇が「正宮位大明神」の宸筆の勅額を御奉納になるなど、古代以来中央にも聞こえる地方の大社として、社殿の造営修築を繰り返し、七十五名もの神官が神事祭礼を勤めていました。室町時代の作と伝えられる境内の絵図には、丹塗りの壮麗な社殿群が描かれ、当時の繁栄ぶりが偲ばれますが、応仁の乱が地方にも波及すると、社殿をはじめ御鎮座以来の記録・宝物の多くが焼失、神領も押領されるなど一時疲弊したものの、越後を領有した上杉家は三千二百石余の神領を寄進し社殿を修造・退転した神事の復興をはかりました。しかし上杉家の会津移封に端を発する越後国内の騒擾から再び神領のほとんどを失い、恒例の神事もままならず、七十五名の神官は二十五名にまで激減し混迷を極めました。
江戸時代に入ると、徳川家康からの社殿修理料三百両の奉納をはじめ、三代将軍徳川家光以降歴代将軍による朱印地五百石の安堵、五代将軍徳川綱吉寄進の社殿修繕(元禄十六年(1703)完成)など、戦国時代からの混乱が漸く解消し、安定を迎えます。この間、元禄五年(1692年)頃より吉田神道の神学者である橘三喜に師事し神道の研鑽を深めた彌彦神社神主・高橋左近光頼は、仏教化された神社の在り方をよしとせず、社僧・供僧を追放するなど神社内の仏教色を一掃し、神官と家人の仏葬を廃して新しく「神祇宗」を興すなど大々的な神仏分離を断行しました。この行動は社僧らによって寺社奉行への訴訟に発展し、その結果違法とされ全ての復旧を要求され失敗に終わりましたが、神仏分離を明治維新から遙かに遡る元禄期に先行した事は特筆すべきことであります。
維新によって江戸時代が終焉し明治に入ると、神社は国家の宗祀として位置づけられ、明治四年(1871)五月に国幣中社に列格し、国家管理のもと従来の祭典神事に加え近代神祇制度によって整備された古代からの祭祀が復活、斎行されるようになりました。
明治十一年(1878)九月十一日には明治天皇の御親拝を仰ぎ奉り、江戸時代以来の民衆の参拝も隆盛し、社頭の整備拡充が図られておりました。しかし、明治四十五年(1912)三月十一日、門前町で発生した大火に罹災し、善美を極めた御本殿以下の社殿が烏有に帰しました。越後一宮の焼失は当時の越後人にとって非常に大きな衝撃を与え、県内はもとより遠く海外からも復興への志が寄せられ、大正五年(1916)、旧に倍する荘厳且つ壮大なる社殿が再建されました。
大東亜戦争後、神社は国家管理を離れて宗教法人となり、昭和二十一年(1946)、多くの神社とともに神社本庁包括下となりました。昭和四十七年(1972)五月二十三日には昭和天皇・香淳皇后の御親拝を、同五十六年(1981)には皇太子同妃両殿下(今上天皇・皇后両陛下)の御参拝を仰ぎ奉り、翌五十七年(1982)には上越新幹線開通を記念して日本一の大鳥居が奉建されました。
彌彦神社は崇神天皇御代の御創建から現在に至るまでの二千四百年以上に亘り、天皇陛下を始め皇室の御安泰と御繁栄、国家国民の安寧と限りない繁栄のために御神威の御発揚を祈念し続け、伊夜日子大神様への感謝と、魂と生命に活力を与えて下さる事を祈る方々の参拝はますます盛んとなり、年間百四十万人が季節を問わず御神前に額づいておられます。
※ 彌彦神社は古くは「伊夜比古神社」と記され、伊夜日子・伊夜彦・彌彦などとも表記されました。 現在は「やひこ」と言い習わされておりますが、歴史的には「いやひこ」と読んでおりました。
少しだけ説...
Read more弥彦神社に向かいました。 大きな鳥居がありました。 越後一宮として古くから信仰を集めてきた彌彦神社。「おやひこさま」として人々に親しまれ、初詣には毎年20万人以上の参拝者が訪れるということです。 新潟県随一のパワースポット「おやひこさま」だということです。 前に自転車で、弥彦山スカイラインを走ったのですが、友達の案内だったのでこちらは寄りませんでした。 御祭神は天照大神の曾孫の天香山命(あめのかごやまのみこと)。 創建から2400年以上の歴史を有するとされる神社で、日本最古の万葉集にも詠われています。 駐車場も一杯でした。丁度出る車がありました。 両部鳥居。 彌彦神社はかつて社殿が朱塗であったと伝えられており、その名残りから朱塗であります。 高さ約6メートルあるということです。 鳥居をくぐる際には、立ち止まり軽く一礼します。 参道は、正中(真中)を避けて歩きます。 一の鳥居東参道入口です 参道を行くと石橋から玉の橋が良い感じです。 明治末の社殿焼失以前には拝殿前にありました。神様が御渡りになる橋です。 参拝の前に「手水」をとって手と口を清めます。 身体的な汚れだけでなく、心をも洗い清め御神前に立つ準備をします。 手水舎 手水の作法 右手で柄杓をとり、左手を清めます。 柄杓を左手に持ち替えて、右手を清めます。 再び柄杓を右手に持ち替え、左手の掌を窪めて水を注ぎ、軽く口をすすぎます(柄杓には口をつけません)。柄杓の水は少し残します。 柄杓を立てて残った水を柄に流し、手にした部分を洗い流します。 柄杓を元の位置に戻します。 2の鳥居随神門 二の鳥居(石の鳥居)をくぐり、参道を進みます。 石段を登り、随神門を通る前に立ち止まり、軽く一礼します。 拝殿前で「二礼四拍手一礼」の作法にてお参りします。 現在の御本殿以下の諸殿舎は明治末の焼失後、近代神社建築の泰斗・伊東忠太氏の設計にて、五年の歳月をかけて大正五年(1915)に再建されたものです。 狛犬も凛々しいです。 十柱神社(とはしらじんじゃ) 大穴牟遅命をはじめ山川草木等の十柱の神を奉祀します。 伊夜日子大神様の御子神をはじめ六代の御子孫神(六王子)を奉祀する摂社と、所縁(ゆかり)深い神社である末社が境内外に合せて十八社あります。 御子孫神(六王子)の摂社には社殿とともに御神廟(墳墓)があります。 八所神社(はっしょじんじゃ) 鹿島神宮など京都以東の名社八社の御分霊を奉祀します。 二十二所神社(にじゅうにしょじんじゃ) 伊勢の神宮をはじめとする畿内の名社二十二社の御分霊を奉祀します。 乙子神社(おとこじんじゃ) 第六嗣/建諸隅命(たけもろずみのみこと) 建諸隅命は十代崇神天皇に大臣として御仕えしました。父命に劣らず孝心篤く、父命が重病となった際に、自らの生命と引き替えに平癒を祈ったところ、この孝心に心打たれた大物主大神の神助により、父命ともども事なきを得たと伝えらています。また崇神天皇の勅命を奉じて彌彦神社の社殿を造営し、祭典を整えました。 御神廟は境内御神木の側に鎮座。
勝神社(すぐるじんじゃ) 第五嗣/建田背命(たけたせのみこと) 建田背命は幼い頃より孝心篤く、年老いた母命が瓜を望まれた時に、季節外れにもかかわらず種を植え、苦心の末に実を熟させて献じて母命を喜ばせました。時の天皇もこの孝心を賞されたと伝えられ、農業の神と崇められています。 御神廟は弥彦公園内・御殿山の中腹に鎮座。
今山神社(いまやまじんじゃ) 第四嗣/建筒草命(たけつつくさのみこと) 建筒草命は平素より閑寂を好まれ、思索を深め心を研ぎ澄まされて、遂に「見ること聞くこと言い行うこと皆天にあらずということなし」という心境に至ったと伝えられています。 御神廟は新潟市西蒲区樋曽(ひそ)の山中に鎮座。
草薙神社(くさなぎじんじゃ) 第三嗣/天戸国命(あめのとくにのみこと) 天戸国命五代孝昭天皇・六代孝安天皇 二代の天皇に大連(おおむらじ)として御仕えしました。後に弥彦に帰られ、神劒峰(みつるぎのみね・弥彦山)の麓・美登之(御殿)山に入り、太刀を抜いて草を払い宮所とされ、故に「草薙」を神名とし、山の名ともなったと伝えられています。 御神廟は村内観音寺集落から御殿山に登る途中に鎮座。
武呉神社(たけくれじんじゃ) ...
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