2022/10/24、国道1号線 元町信号が有る T字路の角に、八幡大社への石碑が有る。「八幡神社参◯」と、一部地中に埋もれている。 道なりに歩けば、参道の前に来る。 東峯八幡大神の創建は、当地累代の名主、渡辺三左衛門が永久2年(平安時代1114年)中打越に勧請、明和2年(1765年)当地へ移転したとされる。江戸期には、当地吉田町の鎮守社となる。昭和41年4月、再築された。 参道の前には多くの石塔が有る。各々を見る。右側から、 ①記念碑: 「奉納 敷石一百二十枚工費一式 東京市四谷尾張町 伊藤平蔵」 「大正五年十二月建之 吉田町 元町」 (因みに敷石を参道から境内に至るまで数えると、ほぼ120枚で あったー正確な記録だ。) ②庚申塔:「安政十年庚申歳吉日 +約11人の寄進者名」 (江戸時代1863年かのえさる) ③庚申塔:「元禄十三庚辰歳 +5人の寄進者名」 (江戸時代1700年かのえたつ) ④歌碑:「前中納言匡房郷ーーー」 「惟持 享和二年歳次 壬戌 十一月 望者建焉 味岡宣親」 (惟持の意味不明、通常は維時=これとき にすると思うのだが。戸時代1802年みずのえいぬ。匡房=くにふさ は平安時代後期の公卿/儒学者/歌人、官位は正二位・権中納言、小倉百人一首では権中納言匡房。達筆の歌は読めない、表に2句、裏にも句が有る。でも何故ここに?) ⑤庚申塔:「貞享三 丙戌 夭 十月九日 +8名の寄進者名」 (江戸時代1686年ひのえいぬ) 更に参道の中頃には、 ⑥庚申塔:「庚申供養塔 +寄進者名多数(読めない)」 ⑦庚申塔:「奉〇〇庚申供養 元禄九 壬申 十二月十日」 (江戸時代1696年みずのえさる) ⑧庚申塔:「貞享三丙◯ 夭 十一月...
Read more鳥居左手にある、前中納言匡房の和歌はこうらしい。
志く禮せ怒 よし田の む羅乃 穐おさ免 か梨保寸 い年能 はか李奈きか那 (時雨せぬ 吉田の村の 秋収め 刈り干す稲の 計り無きかな)
裏には享和二年歳次壬戌十一月望日建焉 味岡宣親(1802)
とある。この歌人、味岡宣親の名は境内の方にも見られる。
そのすぐ後の庚申塔はかなり古いものだ。正面右側から左側にかけて、 貞享三丙?天 十月九日
とある。貞享3は1686年で干支は丙寅。丙の左がどうにも寅には見えない。「横棒のない月」に見えるが、ここに月が入るのはおかしい。
これに対面するようにある庚申塔も 元禄十三庚辰歳 だから1699年だ。
参道を進むとまた貞享3の庚申塔が現れた。 今度も右側から左側にかけて、 貞享三丙?天 十一月吉祥日
とある。寅とは異なる字がハッキリと刻まれている。三猿は横と後ろに彫り分けてある。
階段下にもたくさんある。 2本セットの庚申塔もある。同行11人の名を2本に彫りわけてある。
享保拾二年 庚申供養 乙未 同行拾壱人
享保12年(1727)の十干は丁だが、これは乙に見えるのだが間違いなのか、それとも字体の問題か?
変わったものも見つけた。よく見ると、台座はどうやら亀のようだ。正面(?)には、 天保十一庚子星(1840) 奉掘御社用井水火難消除専祈 四月十七日吉辰
右面には、 八大龍王尊神
とある。
一体どこから持ってきたのかと思わせる、庚申塔兼道標もあった。十干の甲が省略されている。 左面には、 宝暦四戌年二月(1754)
右面には 是より㔫...
Read more東峯八幡大神は、「とうほう」ではなく「とうのみね」と読むようです。祭神は応神天皇。鳥居周辺から既に賑やかで、参道や階段手前にも立ち止まって見入ってしまうものが多々ある。入口手前イチョウの横の庚申塔は貞享3年(1686年)、三猿が揃い明確に青面金剛の姿になっている、被り物をしているが烏帽子か、いや後述のものも同じものを被っていて違う、とにかく頭が長い。向かいには元禄13年(1700年)、三猿無しで彫の深い青面金剛像。参道を歩くと、また左右に庚申塔がある。左側、またもや貞享3年(1686年)のものがある!しかも同じような長いろうそくの形のような帽子をかぶっている。正面に三猿は無く、左右、そして後ろ!に彫られている、素敵。更に参道の向かい、ごつい青面金剛、またもや元禄13年(1700年)の庚申塔、鳥居の下のもそうだが、どちらも荒ぶる神らしい力強さが強調されている、十数年で流行に変化が現れるのが見てとれる。面白い体験をしたが、階段手前に見たことのない形状の庚申塔をふたつも発見。細長い石柱に大きめの笠を被ったもの、八角形の筒形のもの、ちょっと裏側に回りづらくあまり文字が見れなかったのが残念。巨大なシイの木が見事だが、庚申塔にばか...
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