開善寺 埼玉県本庄市中央2丁目8-26
小笠原信嶺夫妻の墓
徳川家康に属して活躍した小笠原信嶺は、天正18年(1590)9月に武州本庄城主となりました。信嶺は慶長3年(1598)2月19日に52歳で死去し、生前自ら開基した開善寺に葬られました。夫人も同所に葬られています。墓石は夫妻共に全高が約180センチメートルの宝篋印塔で、戦国末期より近世初期にかけて関東でもよくみられる形状をしています。
信州において、深志(松本市)小笠原氏と惣領の座を争って破れた松尾(飯田市)小笠原氏の最後の主、小笠原信嶺が天正18年(1590年)、徳川家康の関東入りに連動して、信州伊賀良(飯田)の松尾からこの地に移ってきて1万石の本庄城主となった。 この年、松本の惣領家小笠原秀政も下総古河に移ったので、両小笠原氏がこぞって信州から関東へ移ったことになる。ただし小笠原信嶺の弟小笠原長巨はその後信州飯田の伊豆木に戻った。
信嶺の子信之(酒井忠次の三男から養子)は、関ヶ原では秀忠に従軍した。その後1612(慶長17)年古河へ転封となった。信之が飯田移封を断って家康の怒りを買ったためもという言伝えもあるが、そうなら2万石に加増されている点に合点がいかない。おそらくその代わりに飯田に移ったのが惣領家の秀政であろうか。そして、秀政が去った古河に信之が配属されたことになる。
本庄はその後中山道の宿場町として発展する。本庄から(古河を経て)山深い越前勝山に移った小笠原氏は、この思い出の地・往来の人で賑わう本庄に別邸を設け、隠居した藩主が住んだという(家譜)。...
Read more本庄市の開善寺は、天正19年(1591年)の開山です。
資料によると、 本庄城主小笠原氏の菩提寺であり、屋根瓦には旧武田家であったことを示す三階菱の家紋が見える。 創建当初は壮大な本堂であったらしいが、度々の火災と建て替えで現在の規模となっている。 小笠原信嶺公夫妻の墓は門前の道路を挟む南側墓地の古墳を利用した小山の上に、また、二代城主信之公の墓は北側墓地中央にある。 「武田信玄公画像」は織田有楽斎の筆で、市の指定文化財となっている。 とあります。
小笠原信嶺は、天正18年(1590年)に徳川家康が関東に入部した際、武蔵児玉郡本庄に1万石を与えられ、本庄城主(本庄藩の藩祖)となりました。 天文16年(1547年)、伊那小笠原氏出身の信濃松尾城主・小笠原信貴の長男として生まれます。父と同様に武田信玄配下の信濃先方衆として働いたそうです。徳川家康の配下になってからは、酒井忠次の家臣(家康の陪臣)として信濃・甲斐の各地を転戦したともあります(後に三河出身で酒井忠次の三男・信之が小笠原氏の養嗣子となり小笠原信之として家督を継ぎます)。天正19年(1591年)には、夫人の兄である甲斐国・永岳寺(山梨県韮崎市大草町下条西割)の救山宗温を迎え、自らが開基となり、畳秀山の開善寺(小笠原氏の菩提寺と同名の寺)を本庄宿の中宿(その後の仲町に当たる地域...
Read more本庄駅で降車、市役所方面へ向かって歩き出す。交差点を左へ折れ、暫くすると小路の奥に小高い丘と木々が見えた。一目で古墳跡と分かる頂上に神社があった。愛宕神社だと銘記されていて、以前は開善寺の境内社だと記されていたので、辺りを歩いていると山門があり、立派な本堂が建っていたが、時の流れの中で衰退し、境内も切り取られてしまった感が漂う。創建した小笠原某の墓...
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