かつて赤穂藩の藩主の住居、且つ藩政の舞台であった城址である。 現在は、当時の遺構や庭園を残しつつ、公園として整備されており、且つ無料であるため誰でも気軽に利用することが出来る。一方で、赤穂大石神社や周辺の博物館と異なり、城址内に目を引くような遺品や、像などの芸術品等が展示されているわけではない。一方で園内には多くの桜が植えられており、春には多くの花見客で訪れる。その他にもイベントが開催されている時期もあるが、それ以外は休日でもそれ程混雑した様子は見られず、気兼ねなくゆったりと散策するには丁度いいスポットかもしれない。公園として整備されているとはいえ、史跡である以上、立ち入りが厳しく制限されている箇所もある。 非常に広々とした公園ではあるが、一方で迷いやすい側面もある。特に堀に沿うように建てられている城壁や櫓は、どの方向から見ても往年の美しさを垣間見ることが出来るものの、悪く言えば特徴の無い見栄えが続き、方向感覚を失いやすい。今、自分がどこに居るのかの案内標識も少なく、特に小さい子供はしっかり手を繋ぐなどしないと迷子になりやすいと思う。
The castle ruins were once the residence of the feudal lord of the Ako clan and the stage of the clan's administration. Today, the site is maintained as a park while retaining the remains and gardens of those days, and is free of charge, making it accessible to all. Unlike the Ako Oishi Shrine and other museums in the area, there are no eye-catching relics, statues, or other artifacts on display at the castle ruins. On the other hand, many cherry trees are planted in the park, which attracts many visitors in spring. Other events are held at certain times of the year, but otherwise the park does not appear to be crowded, even on holidays, making it a good spot for a leisurely stroll. Although the area is maintained as a park, as it's a historic site, access to some areas is strictly restricted. Although the park is very spacious, it's also easy to get lost. In particular, the castle walls and turrets built along the moat, although you can catch a glimpse of the beauty of the past from any direction, are so featureless in appearance that it's easy to lose your sense of direction. There are few signs to tell you where you are, so it's easy to get lost, especially for small children, unless you hold...
Read more赤穂城(あこうじょう)は、兵庫県赤穂市にある日本の城。江戸時代は赤穂藩(加里屋藩)主の居城。国の史跡に指定され、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定されている。別名・加里屋城、大鷹城。日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されている。
江戸時代、赤穂藩の政庁が置かれた。
赤穂城の前身となる城郭は、池田長政によって慶長5年(1600年)に築城されたとされる「掻上城」である。「掻上城」は絵図や発掘調査から、現在の赤穂城本丸と二之丸とほぼ同じ位置に存在したことが明らかになっている。その後も池田家の家臣で赤穂郡代となった垂水半左衛門勝重や、赤穂藩主となった池田政綱、池田輝興によって改修がなされたものの、簡略な城郭であったとされる。
正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。縄張りは変形輪郭式。本丸と二之丸は、本丸の周囲を二之丸が取り囲む「輪郭式」に配され、その北側に三之丸が二之丸北辺にとりつくように「梯郭式」に配置されている。銃砲撃戦を意識した設計となっており、十字砲火が可能なように稜堡に似た「横矢掛かり」や「横矢枡形」が数多く用いられている。縄張りは赤穂浅野家初代長直の時代、浅野家に仕えた甲州流兵学者の近藤正純によってなされた。
またこのとき赤穂藩に仕えていた軍学者の山鹿素行が、承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言した。これにより二の丸門周辺の手直しがなされたとされ、発掘調査ではその痕跡の可能性がある遺構が発見されている。
最終的に寛文元年(1661年)に赤穂城は完成し、着手から13年かかって完成している。
完成時には10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847mに及んだ。本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。
明治時代前期に城内の建物は破却、土地の大部分が民間へ払い下げられたため、一部の石垣と堀のみを残し、田畑化・宅地化した。本丸には小学校などが設置されるなど、公共施設の用地として利用された。1928年(昭和3年)から1981年(昭和56年)の間には、兵庫県立赤穂高校(旧制赤穂中学)の敷地となり、西洋風の鉄筋コンクリート校舎が存在していた。
1955年(昭和30年)には古写真を参考に大手隅櫓、大手門(高麗門)が建築されている。1971年(昭和46年)には赤穂城跡が国史跡に指定され、門・塀・庭園が徐々に再建され、現在も二之丸庭園の復元整備が進められている。現在、本丸には、本丸門や本丸御殿の間取り、発掘調査でみつかった庭園などが復元整備され、その規模や当時の暮らしぶりの一端を窺うことができる。
赤穂城は5万石の石高の割には規模の大きい城である。5層天守の造営も計画されていたが幕府への遠慮か財政難のためか造営されず、天守台のみが今日に残っている。
赤穂城は海岸に近く標高が低いため、堀の水や井戸水には海水が混じり飲用に適さなかった。そのため、千種川の上流に井関と水路を建設して上水道を敷設し、城内のみならず城下各戸にも給水していた。これは「旧赤穂上水道」と呼ばれ、日本三大上水道の一つに数えられている。
赤穂城は浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、脇坂氏(赤穂城預かり)でも赤穂城にて在番していた重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す『脇坂赤穂事件』、森氏でも攘夷派の志士たちが藩政を私物化したとして家老の森主税(可彝)を暗殺した『文久...
Read more赤穂城址にも行きました。
赤穂城は1971年、国の史跡に指定された赤穂市のシンボルです。 忠臣蔵で有名な赤穂浪士の故郷として、現在も多くの歴史ファンが赤穂城へ足を運んでいます。
赤穂城は、甲州軍学者の近藤正純の設計により、13年にも及ぶ年月を費やされて完成した近世城郭です。築城から廃城、復元まで数多くの手が加えられてきたそうです。 赤穂城が築城されたのは室町時代ですが、五稜郭のような形をしており、本丸と二の丸が輪郭式、二の丸と三の丸が梯郭式をもつ、変形輪郭式の非常に珍しい近世城郭です。
また、築城された当時は、二の丸の南半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面しており海城でもありました。 赤穂城は三方を山に囲まれ、東側に千種川、南側に瀬戸内海と、天然の要塞を活かした縄張です。 敷地は広く、全体で12の城門と10の隅櫓を設けた城郭でした。 赤穂藩初代藩主の浅野長直が天守台のみ建造し天守を建造しなかった理由は、5万3千石しかない浅野家にとって、赤穂城は広大すぎたため、財政難となってしまったためとされています。 昭和46年に国史指定を受け、平成14年には本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定され、平成18年には日本100名城に選ばれました。
また三の丸の跡地には、現在、武家屋敷公園が整備されています。 浅野氏時代に、家老に準ずる坂田式右衛門の屋敷があった場所を1983年に、門と瓦葺き土塀を整備し、復元したそうです。 武家門や築地塀井戸屋形などを配しており、江戸時代の武家屋敷の景観を残しています。
なお、三の丸には近藤源八正憲邸長屋門と大石邸長屋門が残っています。 赤穂城内に現存する江戸時代の建物は、これらの長屋門のみです。 1923年にこの2つは国の史跡に指定されました。
近藤源八正憲邸長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれており、近藤源八は赤穂城の設計をした近藤正純の子です。 大石邸は、播磨赤穂藩の筆頭家老である大石内蔵助が三代にわたって居住していた屋敷で、正面門の長屋が現存しています。
本丸に天守は築かれませんでしたが、立派な天守台が残っています。 高さ9.2mにも及ぶ天守台は、見事な石垣造りです。 松本城や彦根城よりも大きく、天守台からは広々とした赤穂の風景はもとより、本丸全体...
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