赤穂城址公園にも行きました。
赤穂城は1971年、国の史跡に指定された赤穂市のシンボルです。 忠臣蔵で有名な赤穂浪士の故郷として、現在も多くの歴史ファンが赤穂城へ足を運んでいます。
赤穂城は、甲州軍学者の近藤正純の設計により、13年にも及ぶ年月を費やされて完成した近世城郭です。築城から廃城、復元まで数多くの手が加えられてきたそうです。 赤穂城が築城されたのは室町時代ですが、五稜郭のような形をしており、本丸と二の丸が輪郭式、二の丸と三の丸が梯郭式をもつ、変形輪郭式の非常に珍しい近世城郭です。
また、築城された当時は、二の丸の南半分と三の丸の西側が瀬戸内海に面しており海城でもありました。 赤穂城は三方を山に囲まれ、東側に千種川、南側に瀬戸内海と、天然の要塞を活かした縄張です。 敷地は広く、全体で12の城門と10の隅櫓を設けた城郭でした。 赤穂藩初代藩主の浅野長直が天守台のみ建造し天守を建造しなかった理由は、5万3千石しかない浅野家にとって、赤穂城は広大すぎたため、財政難となってしまったためとされています。 昭和46年に国史指定を受け、平成14年には本丸庭園と二之丸庭園が国の名勝に指定され、平成18年には日本100名城に選ばれました。
また三の丸の跡地には、現在、武家屋敷公園が整備されています。 浅野氏時代に、家老に準ずる坂田式右衛門の屋敷があった場所を1983年に、門と瓦葺き土塀を整備し、復元したそうです。 武家門や築地塀井戸屋形などを配しており、江戸時代の武家屋敷の景観を残しています。
なお、三の丸には近藤源八正憲邸長屋門と大石邸長屋門が残っています。 赤穂城内に現存する江戸時代の建物は、これらの長屋門のみです。 1923年にこの2つは国の史跡に指定されました。
近藤源八正憲邸長屋門は、「源八長屋」の愛称で親しまれており、近藤源八は赤穂城の設計をした近藤正純の子です。 大石邸は、播磨赤穂藩の筆頭家老である大石内蔵助が三代にわたって居住していた屋敷で、正面門の長屋が現存しています。
本丸に天守は築かれませんでしたが、立派な天守台が残っています。 高さ9.2mにも及ぶ天守台は、見事な石垣造りです。 松本城や彦根城よりも大きく、天守台からは広々とした赤穂の風景はもとより、本丸全体...
Read more【令和6年10月20日】 赤穂浪士の討ち入りの舞台の一つ赤穂城。今も徐々に復元されています。とっても広い公園です。二の丸広場は、桜の花見で有名。その外側は、運動公園となっています。
【赤穂城の概略】 赤穂城は、正保2年(1645)に常陸国笠間から入封した浅野長直が、近藤三郎左衛門正純に築城設計を命じ,慶安元年(1648)より13年以上に亘る歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成したものです。
城郭の縄張りは近藤正純の指導のもと甲州流軍学によるもので、一部、二之丸枡形虎口付近は山鹿素行が設計変更したと伝えられています。
本丸と二之丸は輪郭式、二之丸と三之丸の関係は梯郭式になっており、近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城とされています。 城郭の規模は、10の隅櫓、12の諸門があり、曲輪の延長は2,847mに及んでいます。塁石、防壁、諸門、本丸御殿などが整えられ、居城としての威容が示されましたが、天守台のみ築かれて天守は構築されませんでした。
三代続いた浅野家ですが、刃傷事件により断絶し、その後は永井家、次いで森家の居城となりました。明治の廃藩置県後、赤穂城は払い下げられ、屋敷地は民有地となりました。 しかし城郭復興の気運が高まり、大正元年(1912)には三之丸に大石神社が建立、大正14年(1925)には二之丸に山鹿素行銅像が建立されるなどしました。
昭和3年(1928)には本丸内に赤穂中学校(後の赤穂高等学校)が竣工されましたが、昭和15年(1940)には城跡が風致地区に指定され、昭和27年には都市公園の計画決定、さらに昭和46年(1971)には国史跡に指定され、赤穂城整備が推進されることになりました。
また平成14年(2002)には、旧赤穂城庭園(本丸庭園・二之丸庭園)が国名勝に指定され、現在も計画的...
Read moreNo structures remain here. But you use your imagination to recreate what it...
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