岡湊神社(おかのみなとじんじゃ)の由緒 — 芦屋の「岡の水門」と皇后伝説に根ざす社
所在地:〒807-0121 福岡県遠賀郡芦屋町船頭町12-48(芦屋町の産土神社)。 境内には商人寄進の石灯籠「式日献燈」や、北白川内親王筆の扁額などの文化財が残ります。  
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時期
舞台は仲哀天皇8年の出来事として『日本書紀』に記されます(実年代は比定不能ですが、記紀の物語世界では古代前期)。
できごとと人物 • 天皇の船団が山鹿岬から回って崗浦(=岡湊)へ入り、「水門」にさしかかったところ、船が進まなくなった。そこへ男女二柱の神が現れ、 • 男神:大倉主(おおくらぬし) • 女神:菟夫羅媛(つぶらひめ) を祀れば船は進むと告げます。 • そこで倭国宇陀の人・伊賀彦を祝(はふり:斎主)に立てて祭祀を行うと、船は動き出した――というのが岡湊神社の縁起です。 • さらに皇后(のちの神功皇后)は別船で「洞海」から入ってきたと記され、北九州沿岸一帯の海域を舞台に物語が展開します。 
ここで現れる大倉主・菟夫羅媛こそが、現在の岡湊神社の主祭神です(相殿に天照皇大御神・神武天皇・素盞嗚命)。社伝の中核が『日本書紀』の当該記事に直接つながっているのが、この神社の由緒の要点です。 
物語に連なるもう一人の古代人物
同じ巻で、筑紫の伊覩(怡土)県主の祖・五十跡手に天皇が目をかけ、「伊蘇志」の名を賜った場面も語られます。北部九州経営に関わる在地首長を示す挿話で、岡湊伝承が語られる章脈に置かれている点が注目されます。 
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近世の大事典『古事類苑(地部/港)』は、「岡湊=芦屋の港」で、「岡の津」「岡の浦」とも称したこと、また『万葉集』注にある「岡の水門」との関係が論じられている旨を掲げます。「岡湊」という名が古い港名の系譜にあることを示す典拠です。 
加えて、『万葉集』にも「岡の水門」が詠まれ、筑前北岸の港を指す語として古くから知られていました(研究者データベースの解説参照)。 
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海運と商人の信仰(事物の手がかり) • 境内の一対の石灯籠「式日献燈」は、芦屋の旅商(陶器商)と伊万里の陶器商の寄進。芦屋→堺→江戸へと荷が動いた海運拠点だったことを今に伝える実物資料です。  
学者・文人による記録 • 貝原益軒(江戸前期、黒田藩医・儒学者)が社の縁起(縁起書)を著し、芦屋の風景を「岡湊十二景」として記しました。近世知識人の目にも岡湊=古港の地が重視されていたことがわかります。 
祇園社としての崇敬 • 古くから祇園社としても信仰され、人形(ひとがた)や博多人形を載せた山笠で厄を祓う行事が伝わります(7月の祇園山笠、春のあしや人形感謝祭)。厄除・身代わり・交通安全の神として厚く信仰されるのは、水上交通の安全祈願と結びつく岡湊の性格をよく示します。  
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1,800年の歴史凄いです。次回はナンジャモンジャの木か、祇園山笠の時期に来たいと思います。
以下引用させて頂きました。
岡湊神社 おかのみなとじんじゃ なんじゃもん雪のような白い花が咲く「なんじゃもんじゃ」の木が境内を白く染め上げる
約1,800年の歴史を誇り「日本書紀」や「古事記」にも記載される芦屋町の産土神社「岡湊神社」。 故事により、厄除・身代わり・交通安全の神として信仰を集め、毎年4月29日には伝統行事の「あしや人形感謝祭」が行われます。7月中旬の土日には2基の山笠が博多人形を乗せて町内を練り歩く「祗園山笠」や、10月15・16日には例大祭が開催されます。 境内にはたくさんの文化財があり、商人から寄贈された「式日献燈」(石燈籠)や、北白川内親王の書による扁額(神社の表札のようなもの)は大変貴重なもの。宮司邸内にある「千光院大蘇鉄(福岡県天然記念物)」は「島原の乱」を鎮圧した際に原城内から黒田藩士が持ち帰ったもので、樹齢400年以上といわれています。 境内には、明治神宮外苑と同じ親木の「なんじゃもんじゃ(和名:ヒトツバタゴ)」の木が大小200本近く植えられています。4月上旬~5月下旬には雪が積もったような純白の花を咲かせ、葉の緑とのコントラストは絶景です。
基本情報
住所 〒807-0121 福岡県遠賀郡芦屋町船頭町12-48
電話番号 093-223-0216
FAX番号 093-221-1234
駐車場 あり(無料)
アクセス情報 JR遠賀川駅から芦屋タウンバス (芦屋中央病院行)で約1...
Read more仲哀天皇・神功皇后伝承地 遠賀川河口で仲哀天皇の舟が動かなくなった。案内役の熊鰐に事情を聴いた仲哀天皇は祈祷し、付き従っていた舵取りの菟田の伊賀彦を祝として祀らせた。菟田の伊賀彦は当社と祭神が同じである大倉主命・菟夫羅媛命を祀る高倉神社に古墳と境内社が鎮座する。
御祭神 大倉主命・菟夫羅媛命・素盞雄命・天照皇大御神・神武天皇
伊賀彦出身地の菟田とは奈良の水銀鉱山地で、水銀・辰砂に関する知識・技術を持った臣下を高倉の神々に仕えさせ事になる。協力を得るための交渉があったのかもしれない。水銀・辰砂に関する知識・技術はメッキや古墳の彩色に必要となる。後の遠賀川流域の装飾古墳などの素地になったであろう。
辰砂は綺麗な紅色の鉱石だが、この辺であればいのちのたび博物館で見ることが出来る。ちなみに古代は丹(に)と呼んだそうだ。鞍手の新北や新延地名は周辺の装飾古墳からも、この丹(に)に絡むものではないかと考えるが定かではない。
まあ小難しい話は別として、古代日本を支えた岡の湊に鎮座し相応の神気を感じる社である。芦屋来訪の際にはご挨拶...
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