下寺尾遺跡群文化祭のポスターを偶然見かけて行ってきました。 ここ数年は毎年10月第4日曜日ごろに行われているようです。 土器作りや勾玉作りや太鼓の演奏などいろんな出し物が行われていました。 大物議員、現職大臣の河野太郎議員も来ていました。警護のSPがたくさんいて驚きました。
一見現在は特に何も残っていないように感じますが、重要な遺跡です。 律令国家時代に国司に使えた世襲制の郡司という役人(元々は国造などの地方豪族が終身・世襲で任命されていた。国司は中央政府の役人で任期制だったのと対照的)が政務をとった郡衙(それぞれの国に一つあった国の最高政務機関の国衙と同じようにそれぞれの郡に郡の政務機関の郡衙があった模様)と郡寺(それぞれの国に一つあった国分寺が有名ですが郡にもそれぞれ郡寺があった模様)があった場所。 こちらの郡寺はかなり巨大だったらしく七堂伽藍、金堂、講堂などがあったらしい。
郡衙があった時期は7世紀末から9世紀前半と考えられる。8世紀中頃には東脇殿と後殿が撤去され、掘立柱塀により郡庁域を方形に区画するようになる。正殿もその頃に建て替えられるとともに、正殿北東に性格不明の二間四方の掘立柱建物が建てられる。これらの建物は9世紀前半頃に律令制が崩壊してきたことで廃絶したと推定されている。
郡寺は創建時期は7世紀後半に遡る可能性が示されており、8世紀前半には伽藍が完成したとみられている。8世紀中頃に再建され、9世紀後半に律令制の崩壊などで運営難となり廃絶したと考えられる。
茅ヶ崎の歴史ロマンを感じることができる場所。 ぜひとも大事に残して欲しいです。 茅ヶ崎市は2018年から約20年程度をかけて公有化していく方針を示した。とあるのでこれからもっと遺跡が整備されていく可能性があります。 郡寺や郡衙の一部が再現されるということになったら、素敵です。
ちなみに国衙・国府はこの場所から近い場所にある平塚四之宮に初代国府があったという説が有力視されています。 そうなるとこの地域が律令制が機能していた、奈良から平安時代あたりは相模国の中心地で大都会だったことになりますね! (国府はその後、大磯に移転)
茅ヶ崎最難関の偏差値を誇る北陵高校は学校敷地からこのような重要遺跡がでてきてしまったので、仮校舎で現在は授...
Read more以前は、下寺尾廃寺跡の関連礎石と寺院跡を標す石塔のみで、それのみでかつて其処には古代寺院が在ったと自分を説得するだけの状態でした。
現在は、石塔から線路に向かい線路沿いにあった畑地を遺跡としての保存と写真入りの大きな説明看板が建ち遺跡である事とその内容を知る事ができる様になりました。
官衙遺跡は、北側道の対面側に広がっていて、県立高校の敷地内全域に広がっています。現在も学校の機能は残っているものの、在校生は南側の仮校舎へ移転しての授業を受けています。
国指定史跡が地域にある事を近隣の生活に直接影響のある人、遺跡の重要性だけを持ち上げる人。 様々な意見の中で「ここが在って良かった」と言って貰える史跡になっていく。 史跡が育って行く様子を見られる事も注目です。
ここ迄の史跡整備の経過をみていると、今の平成から新しい時代へと変わるのに呼応する様に、史跡の活用も従来の感覚を越えた史跡に育つ期待を持たずにはいられません。 (かなりの覚悟と推進力がなければこの時間経過でのこの状態は無理。遅々として進まなかったと思います。常に1か?0か?の状態を進んで来たと思います。)
テーマパークの様な史跡に疑問の声も聞きます。
海老名温故館と地域住民で構成されたガイドボランティア(皆さんとても学習されています)と国分寺史跡(国指定史跡)。
相模国分寺史跡は古代建築物を目の当たりにする驚きはありませんが地域の方と共に在る事をその都度に感じさせてくれる稀な史跡です。
茅ヶ崎や隣地の寒川、綾瀬、国分寺史跡の海老名、国府史跡の平塚、大磯等の「地域の人々と地域の史跡群と茅ヶ崎」を感じさせてくれる史...
Read more「官衙」とは古代律令制時代の国衙(こくが)と郡衙(ぐんが)の総称。ここは相模国高座郡の郡衙跡で国の指定史跡。郡衙は郡役所のことで、今でいえば市役所かな。郡家(ぐうけ)とも呼ばれる。古代に郡は全国で数百あったと思うが、発掘され所在が確認(推定地を含む)されているのは数十に過ぎない。県内ではこの下寺尾と川崎市の橘樹官衙遺跡群が国の史跡になっており、他に推定地が2ヶ所ある。郡の庁舎や田祖を収納する正倉など、遺跡の発掘状況にもよるが、数十棟の建造物跡が確認される例もある(茨...
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