ふと訪れたら、成瀬家代々のお墓があるとの看板。成瀬正成って、船橋界隈にいたことがあるのか、と驚いて参拝しました。 非常に立派なお堂と、整備された墓地を持ち、無縁となって一か所に集められた墓石を見ると、江戸初期のいろいろな年号が見えます。それだけ歴史のあるお寺だったということでしょう。
船橋市教育委員会の建てた説明板を引用しておきます。原文には丁寧にふりがなが振られていますが、ほとんど省略します。 「市指定史跡 昭和45(1970)年5月20日指定 管理者 宝成寺 成瀬氏の墓 附(つけたり) 墓誌 現在の船橋市西部、旧葛飾町一帯はかつて栗原郷といわれ、江戸時代初期に大名成瀬氏の領地でありました。ここ宝成寺にある成瀬家の墓所は、船橋市で唯一の大名関係の墓です。 成瀬正成は徳川家康の側近の一人で、天正18 (1590)年に家康が関東に移封されるとすぐに栗原郷4千石を与えられ、その後関ヶ原の合戦などの武功で石高を加増され、大名に列しました。やがて家康の九男義直が尾張徳川家を創設すると付家老として後見役に任ぜられ、元和3(1617)年に尾張犬山城主となりました。正成の死後、犬山城主は長男正虎が継ぎましたが、正成は生前次男之成に栗原郷4千石他を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となりました。その後之成は39歳で没し、1歳の之虎が跡を継ぎましたが、その之虎も寛永15...
Read more西船橋駅から徒歩12分位、茂春山 宝成寺 曹洞宗(禅宗) 御本尊は宝冠釈迦如来、創立年月は不詳、天正年間、1500年代後期とされます。 宝成寺のホームページより主な所を抜粋しますと次のように説明されています。
宝成寺は、戦国武将の成瀬正成公が領地内にあった法城寺を菩提所と定めたことから、城の字を成瀬の成字に、法の字を寶字に替え、宝成寺と改めました。
栗原藩成瀬氏について 成瀬正成は徳川家康の側近の一人で、軍功を重ね、天正18年(1590年)に家康が関東に移ると栗原郷4千石を与えられた。その後、正成は関が原の合戦においても軍功があり、境奉行などの職を歴任し、石高を加増されて大名に列した。家康の子義直が尾張徳川家を創設すると、そのお付家老として後見役に任ぜられ、元和3年(1617年)には尾張犬山城主となった。正成は寛永2年(1625年)、江戸で没し、栗原本郷の宝成寺で荼毘に付され、後に日光に改葬された。 正成の死後、犬山城主は長男正虎が継いだが、正成は生前、次男之成に栗原4千石を譲っていたので、之成が栗原藩の2代目となった。その後は之成が寛永11年(1634年)に39歳で没したため、わずか1歳の之虎が跡を継いだ。その之虎も4年後の寛永15年(1638年)に5歳で夭逝し、栗原藩成瀬家は断絶した。一方、犬山の成瀬家はその後も続き、明治時代には子爵となった。 宝成寺は、江戸における成瀬家の菩提寺とされていたので、栗原藩断絶後も一族の墓が営まれ、明治9年までの墓碑が残されている。
尚、境内には市指定文化財(史跡)『成瀬氏の墓 附墓誌』の掲示板が設置され、一部次のように記されています。
墓所に入り南側の駒型の大きな墓は第七代犬山城主正寿のもので、県内最大級の大きさである。西側にある駒型の墓は之成のもので掘杏庵の筆になるという字を刻している。ほかに之成の殉死者三名の墓もある。 昭和四十四年に正寿の遺骨を犬山市の白林寺に移すため墓石の下を発掘したときに、その墓誌が発見された。 また、その後、墓所の整理・縮小を行なった際、正寿の甥の成瀬鍋吉の墓誌も発見され...
Read moreHaven’t ventured there yet but seems quite interesting. There aren’t so many Soto-shu temples in this area and being of the same lineage, one should...
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