20240506日本の「禁足地」八幡の藪知らず探検弾丸ツアーに行って来ました! 以前から興味のあった「日本の禁足地」そのNo.4「八幡の藪知らず」が意外と近場に有ります。 京成佐倉駅から特急上野行きに乗車し京成八幡駅で降ります! 駅から徒歩5分、先ずは不知森神社で参拝を済ませ、「葛飾八幡宮」に向かいます! 「葛飾八幡宮(かつしかはちまんぐう)」は、市川市・八幡地区の名前の由来にもなった、とても歴史の長い神社です! 国道14号線を挟んで不知森神社の反対側に葛飾八幡宮の一の鳥居&社名標があり真っ直ぐな長い参道が始まります! 何と二の鳥居の手前に踏切があります!おっ、ちょうど電車が来ました! 二の鳥居をくぐると隋神門が有るのですが、その手前になかなかに味のあるお顔の狛犬さんが出迎えてくれます! 隋神門と神門をくぐり境内に入ります! 手水舎でお清めをして拝殿に向かうと一際目を引くのは拝殿右側のご神木「千本公孫樹」です! 国指定天然記念物のご神木「千本公孫樹」で何と樹齢1,200年なのだとか! 貸し切り状態で参拝を済ませ、社務所で不知森神社も併せて書置きの御朱印を拝受致しました! 御朱印は全て書置きでの帆布との事です!
葛飾八幡宮:千葉県市川市八幡四丁目2番1号に鎮座 主祭神:誉田別命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・玉依比売命 御由緒:葛飾八幡宮のご創建は平安朝の昔、寛平年間(西暦889年〜898年)で実に千百年以上も遡ります! 宇多天皇の勅願により京都の石清水八幡宮より勧請し、下総の国総鎮守八幡宮としてご鎮座したのが始まりとの事です! 以来歴代朝廷の御崇敬篤く、代々の国司・郡司をはじめ、国民の信仰も深く、下総の国における葛飾文化、八幡信仰の中心となったのだとか! なかでも平将門の奉幣、源頼朝の社殿改築、太田道灌の社壇修復、徳川家康の御朱印地社領52石の寄進等その尊信は篤いものだったそうです! 現在もご祭神のご功績から厄除開運・必勝(「勝つしか」の名からも)・安産・育児守護の氏神さまとして、地域の方々の崇敬を集めているそうです!
20241103京急八幡参拝ツアーに行って来ました! 今日は、午前中に上野の歯医者に行った帰りに「日本の禁足地」そのNo.4「八幡の藪知らず」に再度参拝に行って来ました! 京成佐倉駅から特急上野行きに乗車し京成八幡駅で降ります! 先ずは「不知森神社」で参拝を済ませ、次は「葛飾八幡宮」に向かいます! 今日は参道の銀杏並木がメチャクチャ臭い・・・・・💦 銀杏がたくさん落ちていて、参拝客が踏みまくったからですね・・・・・💦 やっとの事で、拝殿までたどり着いて参拝後に、社務所で不知森神社も併せて書置きの...
Read more千葉県市川市に鎮座する葛飾八幡宮は、寛平年間(889年 -...
Read more石清水八幡宮を勧請して創建し、明治の神仏判然令まで天台宗八幡山法漸寺が別当を務めていたので、創建時の祭神は神仏習合、八幡大菩薩であった事に間違いないが、
こちらも相変わらず明治の国家神道の神仏判然令の残滓で祭神が八幡大菩薩から誉田別(応神)に変えられたままになっている
山門の仁王像は行徳の徳願寺に遷座
山門(仁王門)から随神門と名を改めて仁王の代わりに随身像が鎮座
撞木が取り外された鐘楼に梵鐘
厳島社の祭神は宗像三女神だが、脇にはとぐろを巻いた蛇が祀ってある
蛇神像があると言うことは祭神が弁財天であった証拠
ひどい有り様である
神社本庁の『田中恆清』総裁は長らく、明治の神仏判然令以前の神仏習合時代の祭神に戻すべきだと訴えておられるのを知っているだろ?
なぜ祭神を戻さない?
摂受(即座に否定せずに受け入れる)と習合(同化)の歴史こそが長い日本の歴史であり、その文化を破壊した明治の国家神道、神仏判然令は日本の文革です
そもそも八幡神とて出自は中国で間違い無いでしょう
中国から新羅を経由して日本に渡って来た渡来神
そして応神天皇=八幡神の記述は記紀、続記には無い
応神と八幡神は奈良から平安にかけて同体と見なされ習合した記録がある
八幡神が仏と習合し始めたのは奈良時代、大仏造立時の記録に残っている
実は八幡神と応神天皇(誉田別命)の習合より、八幡神と仏の習合の方が早いのですよ
時を同じくして本地垂迹で八幡=阿弥陀が習合しました 私は国家神道の残滓は批判し続けます
日本全土の神社は明治時代に祭神を強制的に変えられている事が多いのでそれは元に戻すべきだと私は思っています
八幡神ならば習合時代の、本地が阿弥陀の八幡大菩薩か、単独の八幡神に戻すべきです
神仏習合は千年以上の歴史がありますが、明治の神仏判然令での祭神変更後はたかだか150年しか歴史がありません
神仏習合こそ...
Read more