都営地下鉄 新宿線の終点、本八幡駅は京成線 京成八幡駅と連絡しています。京成八幡駅から各駅停車で二つ目の市川真間 (まま) 駅で下車して徒歩15分くらい。
道が分かりやすそうな南口から行きました。南口を出たら、そのまま線路に沿って直進。五差路になったところにある踏切を渡り、市川手児奈通り を進み、手児奈橋を渡り、真間小学校を過ぎたら最初の交差点を左に曲がると、手児奈霊神堂があります。手児奈霊神堂の先、すぐ右側に出入口と石段があります。
真間という地名の由来は、もともとは崖や傾斜地を意味する古語で、ハケと同じような意味。
石段は段数が少なく、楽そうに考えていたのですが、一段あたりの高さがしっかりあり結構急です。しかし、段数が少ないおかげで結構ご高齢な方でも上っていました。石段が無理そうな方は、左側にある坂を上ると、境内の赤門と本殿の間へ行くことができます。
石段のちょうど真ん中あたりに、晴天であっても常に濡れているという、不思議な涙石と呼ばれる石があります。石段を上がったところに仁王門があり、そこからの町の眺めが良い。
仁王門の正面にあるのは、祖師堂。そこから左に客殿、本殿と続く。客殿で御首題をいただきましたが、私の場合、志納料はお気持ちではなく、500円といわれました。また、公式サイトにあるようにお守、御朱印帳などを並べて販売していませんでした。鐘楼堂は仁王門から入った、右側の小高くなったところにあります。
祖師堂、客殿、本殿と新しく立派な伽藍が続きますが、その先にある赤門をくぐると里見龍神堂 (さとみ りゅうじんどう)、太刀大黒尊天堂 (たち だいこくそんてん どう)、真間道場 (旧書院) など落ち着いた雰囲気となります。
祖師堂の裏手に回ると寂光土観音 (じゃこうど かんのん) が立ち、千葉商科大学の校舎がよく見えます。千葉商科大学の学生が、大勢、赤門の前を通り、坂を使って弘法寺の出入口と往来しているので、通学路になっているようす。
また、石段 -- 仁王門 -- 弘法寺 境内 -- 赤門 -- 弘法寺 出入口 -- 石段...
Read more弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、その後平安時代、弘法大師(空海)が七堂を構え 「真間山弘法寺」とし、さらにその後天台宗に転じたとされる。 真間の地は、かつてはすぐ北に六所神社があり、国府が設置されていた古代以来の下総国の中心地であった。 そのためここに古くから寺院があった可能性は高く、本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある。 鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教を受けて、建治元年(一二七五)、時の住持了性が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖日常と問答の末やぶれ、日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人日頂を初代の貫首としたと伝える。 鎌倉末期の元亨三年(一三二三)には千葉胤貞により寺領の寄進を受け、延文三年(一 三五八)の日樹置文によれば葛飾郡一帯や千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁し ていたことが知られる。 また室町・戦国時代には山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせていた。 天正十九年(一五九一)、徳川家康より朱印地三〇石を与えられ、元禄八年(一六九五)には水戸光圀も来訪したと言われる。 江戸時代は紅葉の名所として知られ、諸書に真間山弘法寺の紅葉狩りのことが記されているが、明治二一年(一八八八)の 火災のため諸堂は焼失してしまった。 その後明治二三年(一八 九〇)に再建され、現在に至っている。 境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天をまつる太刀大黒尊天堂、水戸光圀が賞賛して名づけたといわれる遍覧亭、袴腰の 鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、...
Read more奈良時代に行基菩薩が求法寺として創建後、弘法大師が名を改めた日蓮宗の本山。江戸時代には徳川光圀が参詣したと伝えられている。市内を見渡す高台にあり、境内には名木伏姫桜、真間山古墳、弘法寺古墳がある。 石段の下から27段目の石が濡れ続け、涙石といわれている。
神社仏閣がしている仕事は、「歩哨」だと思います。 私たちの社会制度のさまざまな箇所で「ほころび」が生じている理由を端的に「歩哨」の絶対数が減ったことだと思っています。 福島の原発事故は「恐るべき力」を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されていなかったことを示しました。 そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、自身の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいましたが、「あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と告げる「歩哨」仕事を自分に託された召命だと思っている人間はいませんでした。 「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配備しなければならないという人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまいました。 戦争もテロも飢餓も恐慌もない、豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、日本人はその常識を忘れてしまいました。 私たちの生きているこの狭く、脆い世界は「境を守るもの」たちの無言の、日常的な、献身的な努力によってかろうじて支えられているのだということを忘れてしまいました。 崩れかけたこの社会の再構築のための急務は、「歩哨」の...
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