「村社 天神宮(紀部神社)」 祭神「菅原道真公」 〇2021年6月11日午後3時ごろ、訪れた時には、どこにもグーグルマップにある「紀部神宮(きべじんぐう)」と書かれたものは、ありませんでした。 狭い村の中の参道をまたいで建っている「石の鳥居」の脇には「村(社) 天神宮」との神社名を記した「石碑」が建てられていました。その先の「朱塗りの鳥居」にも「扁額(へんがく)」は掲げられていませんでした。 そのため、「別の場所にあるのか」と周辺をウロウロすることになりました。 「朱塗りの鳥居」の前の脇に「紀部神社駐車場」とある自動車1台分の広さの駐車場には、鎖がしてあり、自動車を駐車できませんでした。 〇「紀部神宮」という名称はついていません。 「神宮」の号は、宗教法人「神社本庁」が戦後に乱発していますが、この社は「紀部神社」で「神宮」では決してありません。 〇1BOX車を木部町の幅約3mほどしかない細い道(旧余野街道)をうねうねと対向車が来ないかと、冷や冷やしながら進んで広い通りに出るしかありませんでした。 そんな風で仕方がないので、近くのコンビニに立ち寄ってアイスと飲料水を買って、そこから徒歩で神社に向かいました。 〇「朱塗りの鳥居」脇の細い道の先にあるのかと山に向かって上ると、行き止まりに「墓地」があるだけでした。引き返して「境内」の草とりをされている麦わら帽子の年配の男性に声をかけました。すると、ここが「紀部神社」というじゃありませんか! そこで、参拝をさせてもらいました。 〇「境内」は、二段になっていて、上段奥に本殿がありました。覆い屋の中の本殿には「天満宮」と扁額が揚がっていました。本殿に向かって右の境内端には、お約束の「うずくまった牛」の石像もありました。それで、この神社は「天満宮」なんだと確信した次第です。 本殿左の倉庫には、「旧木部村」の消防設備の「竜吐水(りゅうどすい=木造の手押しポンプ)」が吊り下げられ、下には、雑多なものに半ば埋もれて「手押しポンプ車」があり、村の寄合(よりあい)をする神聖な地なのだと思いました。 「境内」入口の「朱塗り鳥居」の脇には祭の「山車」2台分の収蔵庫が建てられていました。 また、太い「楡(ニレ)」の木がそそり立っていました。 〇「境内」には、女性2人、男性1人が草取りをされていました。どうやら年配の男性は「宮司」さんで、女性はその家族だと思われました。 「宮司」さんに「ここは、天神さんなんですね。」と声をかけると 「そうですよ。」とかえってきて、肩透かしを食いました。 〇私は、「土佐日記」の紀貫之につながる古代豪族の「紀氏(きうじ)」のゆかりの神社で、別の祭神であって欲しかったのですが、これで、歴史の浅い神社であることがわかりました。 私が「うちの村にも、紀部神社があって、関係があるかと訪ねてきた」のだというと。「和歌山からですか?」と返ってきました。 「いいえ、福井県坂井市坂井町木部新保(ふくいけんさかいしさかいちょうきべしんぼ)です。」というと、「きべのきは、紀州の紀ですか?」と聞かれて「紀部神社の紀は、紀州の紀ですが、木部新保の木は、ここの木部町と同じ木です。」と返しましたが、あまり、「紀部」や「木部」のことはご存じない様でした。 「木部新保の近くには、兵庫川が流れていまして、福井県の方では、お城があったようで。それで、「城」の「辺(へん)」と書いて「城辺(きべ)」というそうです。この(木部町)近くにも「城跡(しろあと)」がありますよね。」と話を向けて見たのですが、ピンとこられていない様でした。 「ここは、紀氏(きうじ)の関係で・・・」という発言を引き取って「池田のお殿さんは、池田紀氏(いけだきうじ)ですが、ここは、すぐそばにそびえる山の「城辺山(きべやま)」から「木部」なのではないですか。」と振って見ましたが。これにもピンと来ていないご様子でした。 「この辺りは、織田信長にやられまして、・・・。」と摂津の国人(こくじん)の話をされて、織田信長が一帯を荒らしたような話をされました。 織田信長が、摂津国に侵攻した時には、多くの摂津国の国人(こくじん=地元の武士)たちは、織田信長についたのです。高山右近もこの近くの能勢の高山の武士ですし、「池田城」の池田氏は、信長、秀吉を経て、家康政権で大名として重用されて「姫路城」の主にまで出世していて、全国の「池田」を名乗る人々のルーツになっています。 「伊丹城」の荒木村重が、最初は信長についたものの、毛利側に寝返ったために、信長と対峙して、滅ぼされたものです。摂津国人が全て信長にやられたわけではありません。 いくらなんでも、そんなに「敵」を増やしては、天下人になれません。 周辺を歩きますと、池田市木部町は、植木で栄えたところなので、古い神社によくある、水田開発のための「用水路」に関係するものは無いようでした。 植木の畑の横を流れる水路は、山からの水を素早く猪名川に流すための真っ直ぐなもので、「用水路」のありがたみからは、ほど遠いものでした。 このような土地には...
Read moreいろんな呼び名があるのです。 木部天神宮、木部天満宮、紀部神社などなどですが・・・
現在の正式名称は「紀部神宮」です。 (神宮と称号がつく神社は全国でも珍しいそうです) 木部にあるから木部神宮じゃないの?と言う意見も耳にします。 木部の地名は紀部氏が由来とされているそうです。
日本最初の天皇、神武天皇が神武東征(日本神話)の際、 従者(お供をする者)として活躍した天道根命が紀の国造に任ぜられ 紀伊国で紀氏として名乗りました。
奈良時代 紀氏の末裔になる紀部氏が木部に移住しました。 木(紀)の国と相通じる部(むら)からこの地を木部と名付け 紀部神宮を創建し祖神(クニツカミ)天道根命(アメノミチネノミコト) を祀ったと言われています。 紀部氏の末裔は代々この地で暮らしてきたようです。
平安時代 993年 主宰神 菅原道真 天道根命を祀ると記録 1039年 菅原道真公を祀る「木部天神宮」になっている
一説によると菅原道真公は紀氏とのつながりがあったと言われていますので 紀部神宮はもしかしたら菅原道真公と直接の関わりがなるのではと 考えられる可能性があるのではないか?と言われています。
歌人の紀貫之は紀部氏と深い関係があり池田に何度か訪れている この頃に池田に何度か訪れて五月山の歌をよんでいます。 さつき山 樹の下やみに ともす燈は 鹿のたちとの しるべなりけり
安土桃山時代 織田信長による兵火で木部天神宮と隣にあった松梅寺が焼失 この兵火で木部天神宮の社殿、神宝、古記録も焼失
江戸時代 木部天神宮再建 境内は710坪 本殿、拝殿、絵馬所、社務所などがあった 1789~1843頃が最も繁栄しました。
明治5年 村社として下村五家官坐として京都・吉田殿の免許を受け神事を奉仕
明治41年 神饌弊帛料共神社(しんせんへいはくりょうきょう)に指定されるが 宮司不在時期があり古記録などが散逸
昭和26年 木部在住の方と他地域に移住した紀部氏末裔が古文献や記録を提出し 宗教法人法により「紀部神宮」を申請し認可される 同時に菅原道真公を祀る「木部天神宮」も存立
木部に今も続く下村家が紀部氏の末裔ではないかと言われている。
平成7年 阪神淡路大震災で大きな被害を受ける
現宮司は田口氏で、祖父が昭和初期から宮...
Read more紀部神社、天満宮です。護国寺の奥にあり、立派な神社です。最近私は神社、お寺巡りをしておりますが御朱印帳はしません、賽銭に何百円の高価を入れてお参りするだけ。人が良くなり過ぎても何故か批判がある、清らかな心でお参りができる、何故かそんな気持ちになってしまいました。礼を忘れず礼をする。淡路島巡りも沢山の神社、お寺があり、良い所です。八幡神社も横にあり...
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