「風宮(かぜのみや)」は、伊勢神宮・外宮(別宮)に属する、お宮であり、御祭神は以下のお二人の神様です。 風の神「級長津彦命(しなつひこのみこと)」 風の神「級長戸辺命(しなとべのみこと)」 をお祀りしています。 この2柱の神様は、内宮・別宮の「風日祈宮(かざひのみや)」でお祀りしている神様と同じ神様となります。 両神様は、伊弉諾尊(イザナギのみこと)の御子神とされており、日本書紀においては、伊奘諾尊が立ち込める「朝霧」に自らの息を吹きかけて、霧を吹き払った時に生まれたとされています。 また、別名を「志那都比古神」とも発し、「速秋津日子神(はやあきつひこの)」と「速秋津比売神(はやあきつひめの)」の御子神とも云われております。 なお、「級長津彦命」に関しては、伊奘諾尊の御妻神である「伊邪那美命(イザナミのみこと)」が生んだ御子神とされています。 しかし、現在までの通説では、このお二人の神様は同一の神様であるとされています。 風宮に伝わる有名な話として、鎌倉時代中期にアジア大陸を支配していたモンゴル帝国と高句麗(韓国)から2度にわたり行われた日本侵略「元寇(げんこう)」の際に、2度とも神風を吹かせて船団の多くを沈没させたという話が伝わっています。 この功績から、後に風宮は内宮の風日祈宮と共に日本国を救済した神として威厳と神格を高め、社格が「別宮」へ昇格しています。 この話は1268年(文永5年)にモンゴル帝国の皇帝「フビライ」が九州の太宰府に使者を送ってきたのが事の始まりで、友好を結ぶ内容の書状だったようですが、書状の最後の一文に「我は出兵は好まない」と書かれていたことが発端です。 その後、幾度か使者を送ってきたようですが、1269年(文永6年)に使者が訪れた時にようやく使者に対して日本の意を伝える書状を持たせて返しています。 その内容はこうです。 「日本という国は天照大御神に守護され、その子孫である天皇が代々治める国である。全土に天皇の徳が及んでいる神の国である。」 この文章がフビライに届けられることはなかったようですが、仏教まっさかりであった鎌倉時代の日本にも天照大神への信仰が根付ていたことになります。 この後、拒み続けたことで業を煮やしたフビライは1274年(文永11年)、ついにおよそ3万もの軍勢を日本へ差し向けて博多を襲撃させます。 しかし夜襲を警戒したのか、夜になれば船へ引き上げたそうで、そのときにちょうど暴風雨が吹いて船がすべて沈没したという話です。これが1回目の襲撃です。 2回目はそれから7年後の1281年(弘安4年)の時です。この時は14万というケタ外れの大軍を擁し再び博多を襲撃します。 鎌倉幕府は日本の武士をすべてを結集させ、その日本の武士たちの勇ましい戦いにより善戦し、上陸を許さなかったようです。 しかししばらく経ったある日のこと、今度は台風がやってきてフビライ艦隊は海の藻屑を消え失せ、命からがら残った船だけで撤退することになります。 この二度にも及んだ大風は、当時の人々を勇気づけ歓喜に湧き立ち、「日本は本当に大神に守られている神の国だ」とう認識がいっそう広まることとなり、以後、「神風」と呼ばれるようになります。 ただ、2回目の弘安の役の際、実は朝廷は日本国の勝利を願って大納言「二条為氏」を遣わし、この時、風社にも参拝したようです。 その結果、見事に日本は勝利を収めたものだから、朝廷内も歓喜に沸き立ち、風社から→風日祈宮と名前を改めて神社としての格を「別宮」へと昇格させることになります。 ただ、この際に昇格した神社は、外宮の風宮、内宮の風日祈宮だけではなく、西日本の日本海側に面していた博多湾にほど近い、風の神をお祀りした神社などは、ほとんどが昇格しています。 上記の神風には実は「神風」の言葉の語源ともなった出来事が存在します。 その出来事とは、まだ伊勢神宮が創建される前の神話の時代、かつて伊勢国は「伊勢津彦(いせつひこ)」という神が治めていましたが、やがて後に伊勢国造(いせのくにみやつこ)となる天日別命(あめのわけのみこと)という神が伊勢国を統治することになります。 伊勢津彦は伊勢を去る際、御身を太陽のごとく光り輝かせながら、伊勢湾や日本海の海面に高波が立つほどの強風を巻き起こして東へ向かって去っていきます。 この出来事からしばらくした後に倭姫命が伊勢の地に到着した時、ほどよく弱まった心地よき風と、波の威勢が大変、美しく見えたことから、天照大御神が「神風が吹く国・伊勢。まるで常世の波のように美しい。わたしはこの美しい伊勢国に鎮まりたい」と告げ、今日にみる内宮が創建されることになります。 天武天皇元年(672年頃)頃、天智天皇の息子である大友皇子と大海人皇子(天武天皇)が起こした壬申の乱(じんしんのらん)の最中、突如、大友皇子の陣に強風が吹いて、大海人皇子が勝利したという神風伝説が残されています。 この神風が吹いた後、大友皇子の軍勢は狼狽し、これが大海人皇子の勝利につながったことから、後に歌人・柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)が天武天皇(大海人皇子)の息子「高市皇子(たけちのみこ)」が崩御された際、このような歌を詠んでいます。 「伊勢神宮から突如、吹いた神風が相手を大いに惑わした。この神風はさらに天雲(雷雲)をも呼び寄せ、相手を大いに盲目にした」 と。 尚、この天武天皇とは現在まで続く、伊勢神宮の大祭「式年遷宮(しきねんせんぐう)」を初めて挙行し、以降...
Read more【伊勢神宮125社巡り No.6】 御祭神は、風雨を司る 級長津彦命(しなつひこのみこと)、 級長戸辺命(しなとべのみこと) で、外宮の別宮です。
風宮は、古来風社と称しており、多賀宮へ続く参道沿い、杉の木の本にある小さなお社。
毎年5月14日と8月4日には 適当な風が吹き、適当な雨が降るよう、 五穀豊穣(ほうじょう)を祈願する 「風日祈祭(かざひのみさい)」が執り行われています。
元寇の際に神風を起こしたご神威により、 1293年(正応六年)別宮に昇格したそうです。
皇大神宮別宮の風日祈宮と御同神で、 農業に深い関係のある風と雨の順調が祈られます。
かつては航海安全の守護神としても崇められました。
私は見つけ損ねてしまったのですが、 石垣にはハート型の石もあるので今度訪れた...
Read more風宮も伊勢神宮外宮の域内にあり、この日も多くの参拝客で賑わっていました。 風宮の御祭神は、風雨を司る級長津彦命、級長戸辺命で、古来風社と称しており、多賀宮へ続く参道沿い、杉の木の元にある小さな社だったそうです。 元寇の際に神風を起こしたご神威により、1293年(正応六年)別宮に昇格しました。 皇大神宮別宮の風日祈宮と御同神で、農業に深い関係のある風と雨の順調が祈られるそうです。 かつては航海安全の守護神...
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