Visited this location several times already and even fortunate to witness the anniversary of the end of the okinawan war with the Japanese Prime Minister in attendence. The location is full of history as well as capturing the memory of WWII. At this very location the battle of okinawa did end. Around June 22/23. Mabuni hill was the last Japanese stand with a cave nearby where 2 Japanese Generals took their lives. There is also a cliff called 'suicide cliff' where many japanese soldiers and civilians took their lives. Additionally, the ashes of 180k civilians who perished in the war are housed in beautiful memorials on mabuni hill. This whole area overlooks the ocean with...
Read more初めてこの場所を訪れたのは、もう何年も前のことでした。それは、私の父が亡くなる前に一度は行きたいと願っていた場所で、自分よりも先に旅立った戦友たちの名前が刻まれた石碑を一目見たかったのだと、今になってはっきりと理解できます。父は終戦を沖縄に向かう船の上で迎えたそうです。
私は、父の十三回忌の年に、まだ幼かった息子と一緒にここを訪れました。父が唯一覚えていた「加賀谷」という名前を頼りに、刻銘碑の場所を探しました。この公園には、戦没者の名前を検索できるシステムが設置されていて、氏名の頭文字、都道府県別、さらには市町村別でも調べることができます。父は北方領土の国後島出身で根室支庁の管轄だったのですが、この情報のおかげで、たくさんの加賀谷さんの中から、たった一人の「加賀谷榮一」さんを見つけることができました。その瞬間、名前を見つけたという喜びと、父と、そしてまだ会ったことのない叔父の、さまざまな感情が込み上げてきて、涙が止まりませんでした。それは、私だけの涙ではなかったように感じました。
この公園全体が、第二次世界大戦の記憶を今に伝える、歴史そのものだと感じています。特に、沖縄戦の最後の激戦地となった摩文仁の丘は、戦争の悲惨さを物語る場所です。日本軍の最後の拠点となり、多くの兵士や民間人が自決した「自殺崖」と呼ばれる崖や、自害した二人の日本軍将軍の洞窟が近くにあります。そして、この丘の美しい慰霊碑には、戦争で亡くなった約十八万人の民間人の遺骨が納められていると聞きました。
広大な敷地には、多くの慰霊碑が建立されていて、そこには、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦で命を落とした二十四万人以上の人々の名前が刻まれています。この石碑の列が延々と続いているのを見ると、その命の多さに本当に衝撃を受けます。毎年、六月二十三日には、この場所で沖縄全戦没者追悼式が行われ、正午の黙祷とともに、敵味方関係なく全ての魂が慰められています。私も、たまたまその式典に立ち会う機会があり、厳粛な雰囲気に胸が締め付けられました。
また、ここには平和記念資料館もあります。沖縄戦だけでなく、その後の占領下での人々の暮らしについても学ぶことができ、平和について深く考えさせられます。資料館から見る海の景色は、今となっては穏やかでとても美しいのですが、七十数年前にはこの海が黒い軍艦で埋め尽くされていたと想像すると、胸が痛みます。ここを訪れると、私たちの今の平和な生活が、ここに記されている人々の尊い犠牲の上にあることを実感せずにはいられません。
平和の礎は、単なる歴史的な場所ではなく、未来の子供たちが過去から学び、過ちを繰り返さないようにするための大切な場所だと感じています。戦争の恐ろしさを知り、平和の大切さを改めて噛みしめることができる、日本人なら誰でも一度は訪れるべき場所です。この地から見える美しい景色と、そこに秘められた悲しい歴史のコントラストが、より一層平和への願いを強くさせてくれるのです。そして、この場所に来ると、二度と戦争を繰り返さない、巻き込まれない沖縄であってほしいと心から願わずにはいられません。
静かで穏やかなこの場所には、戦争の爪痕が今も残っています。幼い頃、戦争の遺物である薬莢を拾い、ガマ(自然洞窟)の中で幽霊話をしたという人や、山積みにされた人骨を見たという人もいると聞きました。そんな悲惨な過去があったにもかかわらず、今のこの場所は、たくさんの緑と穏やかな空気に包まれていて、平和を静かに...
Read more(大田昌秀氏)1925年、沖縄県久米島の具志川村(現久米島町)に生まれる。 沖縄師範学校在学中の1945年に、鉄血勤皇隊の一員として沖縄戦を経験し、生還する。戦後、早稲田大学を卒業後、米国シラキュース大学大学院でジャーナリズムを学ぶ。(中略) 沖縄県知事として(1990年~1998年、2期8年)「平和・自立・共生」をモットーに県政を行う。 「平和の礎(いしじ)」の建立に最も力を注ぐ。 摩文仁(まぶに)は沖縄戦における自身の命に関わる場所であり、戦後の平和への活動の原点とも言える重要な足跡が残されています。 摩文仁に関する主な足跡(そくせき)は以下の通りです。 沖縄戦での体験 大田昌秀氏は沖縄戦で、沖縄師範学校の生徒で編成された鉄血勤皇隊の一員として従軍しました。 激戦中の中追い詰められて、摩文仁の丘海岸線から、多くの学友が泳げないにもかかわらず海に飛び込んでいくのを見て、自身も海に飛び込みました。 砲弾の破片で足を怪我し、死体がごろごろ転がる摩文仁の海岸で横たわっていたところを学友に発見されるなど、九死に一生を得ました。 1945年6月19日には、摩文仁村の司令部壕に伝令として赴き、参謀たちが民間人に扮する場面に遭遇しています。 平和活動・知事としての功績 沖縄県知事(在職:1990年〜1998年)時代に、平和祈念公園内の整備事業を推進しました。 1995年6月、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して、糸満市摩文仁に平和の礎(いしじ)を建立しました。 平和の礎は、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ記念碑で、「墓でもなく、慰霊碑でも追悼碑でもない学習教材」として位置づけられています。 沖縄師範学校の生存者や関係者と共に、摩文仁に「平和の像」を制作・建立しました。この像は「友情」「師弟愛」「永遠の平和」を表しています。 このように、摩文仁は、大田氏にとって戦争の悲惨さを身をもって体験し、その後、沖縄戦の記憶を継承し、平和を希求する活動を具体化させた極めて象徴的な場所です。 大田昌秀氏は2017年6月に92歳で死去した。沖縄戦の研究と平和の発進に全...
Read more