80年前沖縄は戦場だった 摩文仁の丘にある各県の慰霊塔を青森のみちのくの塔、岡山の塔と西へ進み、黎明之塔の手前を左に降り、崖を下る階段をしばらく降りると沖縄師範健児之塔がある。雨の日や雨の後などは枯れ葉が濡れていたりするので、注意して歩く必要がある。ここは、階段を下った摩文仁の崖の下ということもあって、忘れられたようになっているが、手入れはされている。 沖縄師範健児之塔は、沖縄地上戦で動員され犠牲となった沖縄師範学校の男子生徒(学徒隊)と教職員を祀る慰霊碑。沖縄戦で約290名の学徒と教師が亡くなった。沖縄本島に米軍が上陸する直前に、沖縄師範学校の生徒386人が防衛召集を受け、陸軍二等兵として動員された。彼らは「鉄血勤皇師範隊」として、負傷兵の治療補助、陣地構築、炊事、情報収集などの任務を担ったが、中には爆雷を背負って戦車に突撃することまで強要された学徒もいた。戦況がどんどんと悪化し解散命令が出た後は、多くの学徒が艦砲の砲弾が降り注ぐ戦場を彷徨い命を落としたり、自死した。塔の後には「健児の塔」や「平和の像」も並んでいる。 1972年の沖縄の日本本土復帰後、第4代の沖縄県知事となった大田昌秀さんも沖縄師範学校の生徒として沖縄戦を体験した一人。大田さんは「鉄血勤皇師範隊」の情報宣伝部隊「千早隊」に所属し、九死に一生を得て生還した。大田氏は、この壮絶な体験を生涯にわたって語り継ぎ、平和を希求する活動の原点とした。大田氏は沖縄県知事として、「平和の礎」の建立や平和祈念資料館の移転新築など、平和行政を推進した。また、自身の著書『沖縄健児隊』で学徒隊の悲劇を描くなど、沖縄戦がどのようなものだったのかを伝えることにも力を注いだ。その大田氏が、沖縄県知事選挙に出馬する際には、この塔の前で、志半ばで亡くなった学友や恩師に決意を報告し、その後も行き詰まった時にはこの塔の前に立ったそうだ。大田氏にとって沖縄師範健児之塔は、自らの戦争体験と向き合い、平和への誓いを新たにする特別...
Read moreA memorial as you walk on the path. All signs are in Japanese.
There is a bathroom....
Read moreこの塔は、一九四五年の沖縄銃で散華した沖縄師範学校校男子部の野田校長以下職員・生徒の御重を祀ったものである。
鉄血勤皇師範隊は、三月 三十一日沖縄守備軍の命令によって編成された。 以来、同隊は軍と共に首里戦線からここ摩文仁の地をて勇戦闘い 三百十九技柱の職員・生徒を失った。 まことに痛ましく断腸の思いである。
時は流れて 一九四七年「幸運にも生存した当時の在学生が、これら戦没学友の冥福を祈って塔の建立を発案した。 戦後の混沌とした世相のなか苦労して募金運動を展開し同窓の先輩諸氏の協力を得て、一九五〇年 五月...
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