I large and beautiful temple with a nice little museum in the forward part of the grounds. It also has an old Japanese house that is a museum that you can enter and walk around, it has a 200¥ entrance fee. The temple grounds are well kept with benches to sit at and are very peaceful. We were there for two hours and saw only one person. The building, that looks like a house, on the right side of the temple is were you go to get your GoShuin. It is a wonderful temple to experience and we highly...
Read more戦国時代の小田原北条家に福島家から婿養子入りした玉縄城主北条綱成公の菩提寺。 山門が文化財指定されている。 玉縄民俗資料館を境内に運営しており、玉縄城と歴代城主に関する常設展示が行われている。 曹洞宗。
造営当初は背後の栄光学園の敷地に存在した。直、旧境内地及び現在の境内地は、嘗ての玉縄城城砦群の域内に当たる。
北条家全盛期の玉縄城主、北条綱成公は最初は黄備え隊を率い、後に玉縄衆を率いて、上杉謙信や武田信玄を苦戦させ活躍した関東一の武勇を誇る将で、敵将武田信玄から激賞された。上杉謙信も自分が苦戦した綱成公が武田信玄に敗戦した際は自分の事の様に悔しがった。 秀吉による北条家本家の改易蟄居後、北条綱成公の孫、北条氏勝公の代に徳川家に下り1万石の小録で下総国岩富城に転封されると支援者を失い往時の繁栄を一度失う。 その後、側用人の新井白石により現在地に移転させられ復興された。 江戸時代には朝鮮通信使の江戸までの道中の宿舎にも成った。
※玉縄北条家のその後。 北条氏勝公は子がなく無嗣断絶を恐れ、信頼を置く実弟の北条繁広公を嗣養子に迎えるが、繁広公を煙たく思う重臣の堀内一族の保身の為の画策で繁広公を差し置いて徳川家の親族に成っていた保科家から養子の北条氏重が迎えられた。 北条氏勝公が没すると北条氏重が堀内等の画策で幕府により後継者承認され、これに怒った北条繁広公と忠臣達は幕府に対して談判を行った。暫くすると北条繁広公は突然死し、これは当時から現代に至るまで堀内一族による暗殺と伝承している。 玉縄北条家を継いだ北条氏重は掛川に三万石で移封されるが結局無嗣断絶により改易。 玉縄北条家の改易後、堀内一族は厚顔無恥にも旧地藤沢に帰り帰農し、忠臣面し玉縄北条家の他の忠臣達の功績をさも自家の手柄の様に喧伝し今に至る。 特に福島家や付家老間宮家の手柄を現在の堀内も自家の手柄と吹聴している。しかし古文書から、それ等の功績は間宮家を始めそれぞ...
Read moreオヤジ駄俳人。 玉縄(たまなわ)城の三代目城主、北条綱成(ほうじょうつなしげ)が建てた香華院(こうげいん)がこの寺の始まりといわれている。玉縄北条の菩提寺として栄える。 玉縄城は、北条早雲によって築かれる。 話は違うが、北条早雲が荒廃している鎌倉、八幡宮の再興を誓い「枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都になしてこそみめ」と一首奉納し、後北条が鎌倉や八幡宮を再興させた。へぇ~、鎌倉って、今でもきらびやかだけど、ほっぽらかされて荒廃していた時代があったのね。鎌倉再興は早雲から。 で、玉縄城。関東進出の足がかりだったり、武田信玄や上杉謙信が侵攻を諦めさすほどの難攻不落の城だったり、結構重要。親族(ダヨネ?)北条に治めさせとるからネ。 だけど、血で血を洗う激戦とか、夜な夜な城に早雲の幽霊が「鎌倉再興しろ~」と言って出てくるとか何がしかのインパクトが無いと、人の噂や歴史小説に取り上げられないので、有名になってないな~。ここに来て初めて知った。 ーーーー ここで二句。 のちの世に 寺だけ残る たまなわ城 荒れすさむ 鎌倉に花 植えそえて ーーーー ダメだ。オヤジの血がうずく。 はちまんぐ...
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