この辺で最も古い寺子屋を営んでいたお寺のようです
以下HPより引用 === 江戸の要衝、小杉御殿を守り固めたサムライ寺 覺王山髙願寺は、親鸞聖人宗祖の浄土真宗本願寺派の寺で、二ヶ領用水の開削の頃にあたる 1603~1609(慶長8~14)年の直前の時期に開かれた。
寺伝によれば、新田義貞の子義興、義宗らが上野で兵を挙げ鎌倉へと進み後、足利尊氏との鎌倉争奪戦の戦乱の影響を市内でも被り、その家臣の霊を弔うための草庵として始まる。その後、庵を改めて真言宗の一寺となった。
今からおよそ370年前の徳川三代将軍家光の時代、1638(寛永15)年に西本願寺第十三代良如上人に随喜した順徹によって、浄土真宗本願寺派に改宗された。神地(ごうじ)の光円寺も帰依寺であった。
髙願寺は、江戸時代の重要な街道であった中原街道と府中街道との交差する位置にあり、府中街道と二ヶ領用水に囲まれたその寺領は、阿弥陀堂領として江戸幕府より賜受されたものであった。帯刀を許されていた家来もいたところから俗称「侍寺」とも呼ばれていた。また、髙願寺は、中原街道沿いの西明寺、泉択寺とあわせて、江戸幕府の小杉御殿の守り固めの役割も果たしていた。
また、髙願寺は、宮内の学校教育の発祥の場として、寺小屋教育も行なわれていた。時には用水をめぐる利水、地境の争いの調停役に住職があたることもあったという。
当初の本堂・庫裡は、1753(宝暦3)年に灰燼に帰しており、翌1754(宝暦4)年、當山第七代南順は再建に取りかかり、同年3月26日には上棟した記録が前本堂の棟札から知ることができる。前本堂は、宮内村の清水喜右衛門棟梁によるもので、堂内の内外陣を分かつ大欄間の一枚彫りの雲水竜は、長谷川久蔵作。雲鳳凰は第八代円海の作であった。
しかし、1982(昭和57)年2月26日、再び火災により本堂は焼失し、現在の堂宇は1987(昭和62)年に再建されたものである。
また、2005(平成17)年、寺号を「髙元寺」から江戸時代中期ごろまで名のっていた「髙願寺」に改称する。
学校教育の発祥の寺 川崎市で最も古い寺子屋が髙願寺に開設 江戸時代中期以前から川崎市で最も古い寺子屋が当寺に開設され、広い地域から通う民衆の子弟等の教育にあたっていた。境内にある1760(宝麿10)年に没した手習い師匠の寿毫堂の墓には、筆弟201人と刻んである。
1873(明治6)年、寺子屋は「宮内学舎」と名づけられた。当時の記録によれば1ヶ月4銭6厘の授業料で生徒数 男15人 女38人...
Read more父を亡くして以来あまりお寺に行く機会もありませんでした
近頃コロナで暇になってから なんとなくお墓参りに行きたくなって 何度となく足を運んでいます
お寺の名前 私が覚え間違っていたのかと思いきや 変わったのですね
ガソリンスタンドを仮堂に使用していたころが 一番親戚の法事が多かった時期なので 立派なご本堂も驚くばかりです
お墓は叔父が継承していて お寺との直接の関りは無くなりましたが また折を見てお参りは続けさせていた...
Read more覚王山と号します。高願寺の創建年代は不詳ですが、新編武蔵風土記稿によると「慶安年中の水帳に弥陀堂料と云ことあり。これ当寺のことなりと云」との記載があり、慶安年間(1648-1651)には既に創建されていたといいます。江戸時代中期より寺子屋が当寺で開かれ、明治5年には宮内学舎となったといいます。近年寺号を「高元寺」から「高願寺」へと改称しています。しかし、寺子屋や宮内学舎の面影はなく、説明看板だ...
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