連歌(れんか)発祥の地(最初に読んだ歌に、歌を返す人が「つづうた」を返す文化)「にいはりつ つくばを すぎていく よかねつる(新治つ筑波を 過ぎて幾代か寝つる)」の9音、10音の歌を日本武尊(やまとたけ)が発句した。それに対して誰も返歌できないでいたところ火灯役(ひとぼし)の1人の「そろりよすな」が、返歌した。「かがなえて よにはここ のよひには とおかを(日夜(かが)なえて 夜には九 の夜日には十日を)」の10音9音の歌を返した。これに日本武尊(やまとたけ)は褒めてタケダ村を授けた。という一説が古事記の前の文献にある。これが甲斐(山梨県)の武田家の祖先がやまとたけであると推察される理由である。素戔嗚(スサノオ)の子孫であるやまとたけの子孫であれば、武田家が強かったことも頷ける。約2000年この伝承が残っている日本はすごい!
The birthplace of Renka (linked verse), a culture in which the first person reads a poem and then the person who returns the poem returns a "tsutsuuta" (a repeated poem). Emperor Yamato Takeru wrote a poem of nine or ten syllables, "I passed through Tsukuba in Shinji and slept for several generations." When no one could write a reply, one of the fire lantern workers, Sororiyosuna, wrote a reply. He wrote a poem of ten or nine syllables, "Kaganaete yo ni wa koko no yo ni wa to oka wo (day and night, nine nights, ten days)." Emperor Yamato Takeru praised him and bestowed the village of Takeda on him. This is one theory found in a document that precedes the Kojiki. This is why it is assumed that the ancestors of the Takeda clan of Kai (Yamanashi Prefecture) were Yamato Take. If they were the descendants of Yamato Take, who were the descendants of Susanoo, it makes sense that the Takeda clan was so strong. It's amazing that Japan has preserved this tradition for about...
Read more酒折宮(さかおりのみや)の創建年代は不明です。和銅5年(712)に編纂された古事記及び養老4年(720)に編纂された日本書記に記載のある神社です。 祭神は古代日本の国土を平定した日本武尊(72~133)です。日本武尊は、第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父です。 日本武尊が東夷征討の帰路、塩海足尼(しおみのすくね:甲斐国造)を召して、「汝はこの国を開き、益を起こし国民を育てよ、わが行末はここに鎮座すべし」といわれ、叔母である倭姫(やまとひめ:垂仁天皇の皇女)から授けられた火打嚢(ひうちぶくろ:腰に下げる装身具の一つで,皮,ラシャ、高級織物でつくられ,口を緒でくくり,中にお守札,金銭,印形などを入れるのに用いたもの)を賜わった。のち社殿を建立し、その火打嚢を御霊代として奉祀したと伝えられています。
日本武尊は、東夷征討の帰路、酒折宮においでになった。灯をともしお食事をされ、この夜、歌を作って従者にお尋ねになって、こう言われた。 新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか(新治筑波過幾夜寝) 従者は答えられなかった。御火焚の者が、皇子の歌の後を続けて歌って、 日数を重ねて、夜は九度、昼は十日でございます(計夜九夜日十日)とお答えした。 御火焚の賢いのを誉めて、厚く褒美を与えられた。 この時の歌のやりとりが、複数の作者によって詩を連作する連歌の発祥で...
Read more酒折宮は日本武尊の東征の際、行宮として設けられた酒折宮に起源をもつ神社で、連歌発祥の地とされています。
尾張から相模・上総を経て蝦夷に至った東征の帰路、日本武尊は相模の足柄峠から甲斐国酒折宮へ立ち寄り、信濃倉野之坂を経て尾張へ至りました。
甲斐国酒折の地に着くと、日本武尊は甲斐国造に任じて火打袋を授け、「行く末はここに鎮座しよう」と宣言し、その火打ち袋を神体とする社殿を造営しました。
滞在中のある夜、日本武尊は家臣にこう歌って問いました
「新治 筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」 (常陸国の新治・筑波を出て、ここまでに幾晩寝ただろうか)
家臣が答えられずにいると、身分の低い焚き火番の老人が答歌しました。
「日々(かが)並(なべ)て 夜には九夜(ここのよ)...
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