(1573年)3月18日、水野信元の庶子として生まれる。兄に早世した水野十郎三郎、伊予松山藩に仕えた水野茂尾がおり、徳川家康の母方の従弟にあたる。土井氏の系図には徳川家家臣・土井利昌(小左衛門正利)の実子と記載されている。この場合、遠江国浜松城(現在の静岡県浜松市)で生まれで、母は葉佐田則勝の娘という説もある。また、家康の落胤という説もある。天正3年(1575年)、父・信元が佐久間信盛の讒言で、家康やその同盟者で信盛の主君である織田信長と敵対していた武田勝頼旗下武将秋山信友と内通したという嫌疑(秋山が占領していた岩村城への水野領からの兵糧売却)をかけられ、三河国の大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町字広元)において信長の命を受けた家康配下の平岩親吉によって殺害されると、家康の計らいで土井利昌の養子になった。利昌には実子で長男の元政(甚三郎)がいたが、それを差し置いて利勝が家督を継いでいる。天正7年(1579年)4月に徳川秀忠が生まれると、7歳にして安藤重信や青山忠成と共に秀忠の傅役を命じられた。役料は200俵であった。豊臣政権下での家康の関東転封後の天正19年(1591年)、相模国に領地1,000石を得る。慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの際には、利勝は秀忠に従って別働隊となり、江戸から中山道を通って西へ向かった。しかし信濃上田城の真田昌幸を攻めあぐみ、関ヶ原の決戦にはついに間に合わなかったものの、戦後に500石を加増されている。慶長6年(1601年)に徒頭に任じられ、慶長7年(1602年)12月28日に1万石を領して諸侯に列し、下総国小見川藩主となった。行き違い等々の切はご容赦下さい...
Read more宗派 浄土宗 院号 宝地院 山号 証誠山 利勝山
寛永10年(1633年)幕府大老土井利勝により開山され、当誉弦哲により開基されました。古河城北側の追手門近くの武家屋敷周辺にあります。土井家の墓所は明治に入ると東京都台東区浅草の誓願寺に移されましたが、大正時代に起こった関東大震災により、立ち退きを余儀なくされ、昭和2年(1927年)再び古河に移されました。
境内には、歴代の土井家の藩主が眠る墓があり、土井家の菩提寺となりました。
正定寺は、古河七福神の弁天様の寺で、境内には白蛇を祀る祠があります。赤色の門と高台に建つ鐘台が特徴で目標になります。
アクセス JR東海道本線・上野東京ライン、湘南新宿ライン、古河駅から徒歩14分
東武日光線、新古...
Read more土井家ゆかりの歴史のお寺で見どころも多い。 庫裡にて御本尊の御朱印を住職様に書き入れていただきました。 古河市には浄土宗の証誠山正定寺が2ヶ所あるので注意。 混雑するほどではありませんが、何組かの参拝客がいました。スタンプ...
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