菅田天神社(かんだてんじんしゃ)の祭神はスサノオノミコト、五男三女神、菅原道真です。
承和9年(842)、甲斐国司の藤原伊太勢雄が勅命により創建し、寛弘元年(1004)に菅原道真が祭られ、菅田天の名の由来となりました。
古くから甲斐源氏の鎮守と位置づけられ、甲斐武田氏の篤い保護を受けました。
甲府の鬼門除けのため、鎌倉時代初期のころ御旗とともに武田氏の家宝として始祖新羅三郎義光以来相伝されていた楯無(たてなし)という鎧が安置され、武田信玄は改めて楯無を菅田天神社に奉納しました。
天正10年(1582)の武田氏の滅亡に際して向嶽寺の大杉の根元に埋められた鎧は江戸時代になって徳川家康に鎧を掘り出され、再び菅田天神社に奉納されました。
現存する鎧は平安時代後期の作とされ、年に数時間のみ公開されます。
源義光(みなもとのよしみつ)は甲斐源氏初代当主で兄に源八幡太郎義家がいます。
近江国の新羅明神(三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称し、左兵衛尉、刑部丞、常陸介、甲斐守、刑部少輔を歴任しました。
左兵衛尉の時、後三年の役で清原武衡・家衡に苦戦している長兄の義家を朝廷の許しなく救援に陸奥国へ向かったため、官職を剥奪されました。
その甲斐もあって合戦に勝利し、京に戻ると刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔に至りました。
義光の子孫は平賀氏、武田氏、佐竹氏、小笠原氏、南部氏、簗瀬氏と在地武士として発展しました。
甲斐源氏は源義仲や源頼朝と同等の影響力を持っていましたが、義仲を滅ぼした頼朝にその勢力の大きさを警戒され、徐々に抑圧され御家人化していきました。
常陸源氏の佐竹氏は平家と結んで源義朝後の東関東に影響力を伸ばしましたが、鎌倉幕府成立により所領没収となり、活躍は室町時代に入ってからです。
大治2年(1127)10月20日に死去、墓所は滋賀県大津市園城寺町で、...
Read more❶【参考 武田史跡めぐり 1980年】
盾無の鎧(1980年の書にかかれた盾無の鎧の紹介文となる)
武田家には古来2つの守り神があった。 御旗(みはた)とよばれる日章旗(にっしょうき)と盾無の鎧(たてなしのよろい)とよばれる鎧である。共に陣中にあっては 軍神として甲州軍団の結束の中心にあった、という。
盾無の鎧は甲斐源氏の祖、新羅三郎義光以来、武田家の神宝として崇拝されてきた。この鎧は武田家の宗家が代々受け継ぎ、祠廟(しびょう・祖先や先人を神としてまつる祠)に安置されてきたという。 その威厳は高く、武田氏の誓盟(せんめい)の言葉に「御旗、盾無もご照覧あれ」と入るほどである。
武田信玄の時代になると、甲府の鬼門にあたる菅田天神社に鬼門鎮護として “盾無の鎧“ は納められた、という。
武田勝頼が天目山で滅んだ時に、“盾無の鎧“ は陣中にあった、という。武田の家臣により、武田家の軍神である“御旗”と“盾無の鎧“は持ち出されて、塩山・向嶽寺の大杉の根方に埋め隠されたという。 武田家滅亡の後に、入甲した徳川家康がこの話を聞き、掘り出させて再び菅田天神社に納めたと云われている。
[正式名称] (昭和27年に国宝に指定)
鎧は 小桜韋黄返威鎧(こざくらがわきがえしおどしよろい)と呼ばれる。 胴は 黒漆塗いの平板を小桜藍染韋(こざくらあいぞめがわ)で毛引きに威したもの。 兜(かぶと)は 黒漆塗の鉄十枚張、急勾配(こうばい)の厳星(いがぼし)兜である。
ちなにみ もう一つの武田家の守り神である 御旗と呼ばれる日章旗 は塩山市裂石の雲峰寺...
Read more令和六年の十月、年に一度あるかないかの国宝楯無鎧特別公開時に参拝しました。
当日は公開開始の1時間前から並びましたが、既に50人近くは並んでいたかと思います。そんな状況から運営さんが気を遣ってくださって、開始時間を前倒ししてくれましたが、2人ひと組で2分ずつの鑑賞(なにしろ収蔵庫が小さく間口が狭い)でしたので、それでも自分の番が来るまで結構待ったなぁと言った印象が残っています。 肝心の鎧はほんの短い時間の鑑賞でしたので、少しだけ写真を撮影(可でした)したりもして当然あっという間でした。 歴史のある実物をこの目で拝められるだけでありがたいことですし、多くの人が拝観したいと思うのは当然ですから、そこは仕方がないですね。
余談ですが、東京国立博物館の刀剣展示スペースで、たまにこちらの復元鎧を観覧できるのですが、所々違うところがあるんです...
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