十七ヵ寺が甍を並べ、終日(ひねもす)香の絶えることなき寺町の路地に歩を運び、左手最奥に四季折々に鮮やかな植栽が豊かな佇まいを身近かに感じさせている純日本式の庭園がある。奥に長く続く庭園の総面積は4300平方メートル(約千三百坪)。 王朝風の佇まいを入れ、萩坪、山吹坪、稚松坪が展け、石組みに前栽をあしらった枯山水であり、中島を配した心字の池にかかる石橋は、高山彦九郎にゆかりのある京都三条の橋を模している。 この池に注ぐ遣水あたりの築山、背後の杜などにも北山杉を移植しているほか、京都より移築した茶室への延壇の静かな雰囲気に加え、茶室の犬走りの玉砂利敷きも、鞍馬山より貴船の赤石を運び入れ並べている。茶室は一般にも開放利用されているようです。 庭園前の広場は、マイクロバス以下なら無料で駐車できます。 (2018/12/12)
【現地案内板より転載】 この庭園は昭和三十五年一月に月星化成株式会社より寄贈され、財団法人高山彦九郎史跡顕彰会が管理しているものです。 設計は奈良国立文化財研究所工学博士森蘊(オサム)の手によるもので、京都風をそのままに王朝風の佇まいを入れ、萩坪、山吹坪、稚松坪など石組みに前栽をあしらっての枯山水で一石一岩の姿を藤原時代の作庭記の内容や鳥獣戯画に描かれている動物の遊び戯れていている様になぞらえ、また中島を配した心字の池やこの池に注ぐあたりの築山、滝遣水加えて京都より移築しました茶室や、鞍馬の赤石、北山杉の植込みはこの庭園の話題です。 この茶室の名は庭園西側にあります、勤皇志士高山彦九郎の墓石に刻まれています、「松陰以白居士」の法名に因み、「以...
Read more元和8年1622臨済宗妙心寺派の僧漢室が開基。3世住職三源が他に去り無住となる。 明暦2年1656城内祇園寺(維新後廃寺。あと素盛鳴神社となる)中興第4世法印快応が藩の許可を得て小堂を建立、遍照院と号してその末寺とし、祇園寺代々の墳墓の地を設ける。 境内には高山彦九郎の墓所がある。(門前の案内板より)
歴史を感じさせる山門をくぐると、左手に地蔵堂。ここには大きめの六地蔵塔が安置されている。 その先左手が本堂である。 本堂の正面あたりには地蔵菩薩像板碑(応永年間1394-1428頃の作)がある。 さらに奥に進むと高山彦九郎の墓地入口にたどり着く。...
Read more創建は1621年の、真言宗のお寺です。 遍照院は、尊皇思想を早くから唱えていた高山彦九郎を奉っています。彦九郎は群馬県の新田郷里の出身ですが何度も久留米をおとずれこの地(自壊した場所は少し離れたところにある)で亡くなりました。 後に、吉田松陰をはじめ多くの勤皇の志士にも影響をあたえました 。 また藩難事件にからんだ耿介四士之墓もありあす。 ムーンスターの創始者をだした倉田家もここに累代の墓がある。 ここにある日本庭園も倉田雲平氏...
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